2020年4月21日火曜日

燕飛(猿飛)について 1


燕飛(猿飛)について 1

前回まで、小笠原玄信斎(真心陰流)の圓飛について話題にしてきましたが、その技術について検討する前に、燕飛についての概要について簡単に説明したいと思います。

まず、そもそも燕飛とは何か。
燕飛は上泉信綱が創始した新陰流の体系の中で最もはじめに位置する太刀(技)※1です。信綱が学んだ陰流の猿飛を元にしていると言われています。(愛洲陰流や新陰流についてはWEB上や色々な書籍に説明があるので省きます。こちらでも簡単に歴史を説明しています)

柳生家に伝わる上泉信綱直筆とされる『影目録』※2には
  1. 燕飛
  2. 猿廻
  3. 山陰
  4. 月影
  5. 浦波
  6. 浮舟
  7. 獅子奮迅
  8. 山霞

の八本が記載されています。

このうち、燕飛から浮舩までの六本が現在まで尾張柳生家系の新陰流各派に伝わっており、この六本を続け使い(技を区切らず、続けて稽古すること)にすることが特徴となっています。またこの六本を総称して燕飛と呼んでいるとのことです。

柳生家の影目録、疋田豊五郎直筆の猿飛の巻、丸目蔵人の伝書や新影流松田方、西一頓や蒔田次郎など上泉信綱直筆、もしくは直弟子の燕飛の巻の序文には共通して

「燕飛(猿飛)は懸待表裏の行。五箇の旨趣を以て肝要となす。いわゆる五箇とは眼・意・身・手・足なり。」

という文面が見られます。

この五箇(眼意身手足)は燕飛を語るにあたってかなり重要なキーワードですので、心の片隅に置いておいてください。今後の記事でも言及する事になります。いくつかの系統で、燕飛が剣術の基礎・基本を身に付けるためのものと位置付けられていますが、まさにこの懸待表裏と五箇が剣術の基礎にあたると思われます。(序文に関しては他の部分もほとんどの系統で共通していますが、今回は言及しません)

各系統の目録(体系)の比較

燕飛は現在の尾張柳生でこそ後の段階で学ぶことになっていますが、史料を見る限り、ほとんどの系統で最初に学ぶ太刀(技、形のこと)となっています。

これは、新陰流開祖の上泉信綱が学んだ陰流の初手が猿飛の太刀だったことをそのまま踏襲しているのだと思われます。こちら国立東京博物館 愛洲陰之流目録で現存唯一と思われる愛洲陰之流目録の画像を見る事が出来ます。絵図や順序など違う部分もありますが、八本目まで影目録の名称と同じです。

次の表は各系統のエンピの目録を比較したものです赤字・紫字は共通点、青字は陰流のみにあるものです。順序の入れ替わりや字の違いはあれ、どの系統もほぼ同じになっています。(こちらの記事で言及している通り、他の系統と違い、愛洲陰流と疋田豊五郎の猿飛には共通点があります。)

表‐ 各系統エンピの比較




次の図で上記表で言及した伝書の発給者についての系図を示しますのでご参考にしてください。

図 表で言及している伝書発給者系図


以上見てきたように、新陰流における燕飛は愛洲陰之流の初手を踏襲したもので、新陰流各派で開祖上泉信綱そのままの太刀の名称、目録として伝わっていました。前記の図表で言及した系統のうち、西一頓・牧田次郎の系統の伝承は途絶えたようですが、丸目蔵人佐の系統はタイ捨流として、疋田・柳生・松田の系統は新陰流(新影流)として明治維新を迎えています。とくにタイ捨流、疋田、柳生については現代まで存続しています。


※1 現在、柳生系の新陰流では燕飛は一番最初の技ではなく、後でまなぶ事になっているようです。参考:転会の教習課程と伝位
※2 影目録は第一 燕飛・第二 七太刀・第三 三学・第四 九箇の四巻が柳生家に所蔵されているそうです(柳生厳長 正伝新陰流 p62

参考文献

下川潮(1925)「剣道の発達」大日本武徳会,1925
柳生厳長「正伝新陰流」1957
宮本光輝,魚住孝至「愛洲陰之流目録(東京国立博物館蔵)の調査報告」国武大紀要第28号,2012

 燕飛の技法について


図‐エンピの伝承図

 上記の図は愛洲陰流の猿飛に始まる燕飛(猿飛、以下全体を差す場合はエンピとします)の伝承系図(※現在も伝承されているものの抜粋)です。次回は、図中赤枠で示している、尾張藩の新陰流(柳生)、薩摩藩の示現流、肥後藩の新陰流(疋田)のエンピについて、簡単に動作について比較します。
 この三流派は、系譜や技術の伝承過程が史料や諸記録によっておおよそはっきりしているので次回の検討対象とします。この三流派以外にも、タイ捨流・寺見流・薬丸自顕流・鞍馬楊心流・神道無念流・大石神影流などに燕飛もしくはそれ由来の技・形・組太刀がある(または可能性がある形がある)のですが、それらはまた違う機会とします。直心影流とその影響下の流派や形については次々回以降になると思います。

2020年4月13日月曜日

真心陰流と無住心剣術と燕飛 第三回 小笠原玄信の師


前回はこちら

 真心陰流のエンピの技法について検討する前に、小笠原玄信の師について考えてみます。
 一般的に小笠原玄信の師は奥山休賀斎とされています。ですが、これは直心影流に独特の伝承で、加藤田神陰流・神信影流・無住心剣術等の小笠原玄信系統の流派の伝承に奥山休賀斎は登場しません。私個人としては、小笠原玄信は柳生石舟斎の孫弟子もしくはひ孫弟子ではないかと考えています。今後の記事の中でその点についても書いていく予定ですが、まずは、小笠原系統で流儀の伝承についてどのように語られているかについて、無住心剣術の針ヶ谷夕雲(五郎右衛門)の『夕雲流剣術書 全』を中心に小笠原系諸流の伝承・傳系について見ていきます。

参考:真心陰流系図

小笠原源信長治
├小笠原玄信義晴(真之心陰流)
├針ヶ谷夕雲(真心陰流、無住心剣術)
││└高田能種(神之信影流、加賀藩)
││ └山森武太夫俊清
││  └山森武太夫近陳
│└片岡伊兵衛(真心陰流、黒田家)
│ └中村権内(真心陰流)
│  └加藤田新作(真神陰流)
│   └加藤田平八
│    └加藤田新八
│     └加藤田平八郎
└神谷傳心斎(直心流)
 └高橋重治(直心正統流)
  └山田一風斎(直心正統流)
   └長沼国郷(直心影流)

小笠原玄信と針ヶ谷の歴史認識

『夕雲流剣術書 全』(国立公文書館、日本武道全集七巻などに掲載)は小田切一雲が師の夕雲とその剣術について書いた書です。針ヶ谷の時代(17世紀)の江戸の兵法者および小笠原玄信の直弟子が語った事が記録されているという点で貴重な証言があります。
夕雲は生年不明、没年は1669年に60代で亡くなったとされています。また、学のある人物では無かったともされています。つまり、戦国時代については実体験では無く伝聞ですが、江戸時代初期の江戸在住兵法者の一般的な認識に近いと考えてもよいと考えます。

針ヶ谷夕雲の談話として
「世より百年計以前迄は、兵法さのみ世間にはやらず。(略)武士安座の暇なく、毎度甲冑兵仗を帯して戦場に臨で直に敵に逢て、(略)数度の場に逢て、自己の勝理を合点して、内心の堅固にすわる事、当世諸流の秘伝極意と云物よりも猶たしかなる者多し。」
「近代八九十年此方、世上も静謐になり干戈自ら熄み、(略)勝理の多く、負る理の少きかたを詮議して勤習する事、武士のたしなみと成て、木刀しない(革袋)などに互の了簡を合せ試みる事、兵法の習ひと成て、(略)秀吉公の天下を治め玉ふ時分に当つて、鹿島の生れに上泉伊勢と云ふ者有て、兵法中興の名人なり。それまで日本にある流には、鹿島流・梶取流・神刀流・戸田流・卜伝流・鞍馬流など云て、日本国中に漸く六七流のみなり。」
「上泉は世間に勝れて所作も上手にて、道理も向上なるに依て諸人信仰す。初は神刀流なれども、所得の事ありて神陰と流の名を改めて、諸国を修行して、後は伏見の里に住居して、秀頼公の旗本其外の諸侍に兵法を指南し、弟子三千人に及べり。」
とあります。つまり、夕雲(1669年没)が一雲に教えていた時期(1650年代後半-1660あたり?)から100年以上前は兵法を学ぶものはそれほど多くいなかった、というのが夕雲の世代の認識だったのでしょうか。

また、上泉が鹿島の生まれで神刀流から出たとされ、陰流についての話が無いのも興味深い点です。
神谷伝心から出た直心影流が鹿島神傳を名乗っていること、針ヶ谷の弟子である高田源左衛門の系統が鹿島大明神神之信影流を名乗っていることなどと合わせて考えると、小笠原玄信は上泉は(鹿島の)神刀流から出たと考えており、弟子にもそう教えていた可能性がありそうです。神刀流については、鹿島に鬼一法眼の秘伝書があることや、鞍馬流が鹿島に在ること※1など、かなり詳しく語られており、針ヶ谷や小笠原はかなり鹿島の流儀について詳しかったと思えます。ただ、針ヶ谷は鬼一法眼を兵法の源流としており、神刀流も鬼一法眼の影響下に成立したと考えていたようで、この点が直心影流の鹿島神傳の伝承とは相違している点です。

 また、さきほど書いたように陰流について全く言及が無い点などから、どうやら小笠原玄信やその弟子たちは新陰流の歴史や人物については詳しくなかったようです。夕雲流剣術書では上泉について、
  1. 四人の印可弟子がおり、それは柳生但馬、挽田文五郎、小笠原玄信、戸田清源の四人(比較的有名な丸目蔵人や神後伊豆守などについて認識されていない)
  2. 上泉が伏見に住んで秀頼公の旗本等に教えた(秀継に仕えた疋田か京で教えていたという神後の逸話が歪んで伝わった?)※1
  3. 戸田清源が上泉の四人の印可弟子の一人で、加賀に行き戸田流の家を継いだ。(実際は冨田勢源はそもそも生まれが冨田家であるし、冨田家は継いでおらず、加賀に住んでもいない。加賀にいたのは弟の冨田景政)
と書かれており、色々な人物について混ざってしまっているように感じられます。小笠原玄信が学んだシンカゲ流の師範からは詳しい歴史については学べず、上泉や柳生家等について世間で語られている事のような通り一遍の話しか知らなかったのではないでしょうか。

 九州で有名な丸目蔵人、京都で活躍した神後伊豆守等の名前が無い、シントウ流に詳しく、中條流に詳しくない、などの点から小笠原玄信は関東の育ちではないかと思われます。(ただ、なぜ挽田について詳しいのかはわかりません。江戸では疋田系統の流派が教えられていたようなのでその影響でしょうか)

 また、小笠原玄信の二代目と思われる小笠原義晴系では、多くの場合上泉信綱から小笠原義晴となっています。各系統の伝系をまとめると、
  1. 無住心剣術系(小田切・中村系):上泉信綱から小笠原玄信
  2. 神信影流:上泉信綱から針ヶ谷五郎右衛門
  3. 直心影流:奥山休賀斎から小笠原玄信
  4. 小笠原義晴系:上泉信綱から小笠原義晴
となっており、やはり小笠原玄信の師が誰だったかは伝わっていなかったのではないかと思われます。(奥山の名前が現れるのは直心影流を名乗って以降に登場する兵法伝記からのようです)

※1塚原卜伝の高弟である、松岡兵庫助の系統の新当流松岡派などには判官伝十二カ条(義経流ということか)が含まれていました。新當流兵法太刀稽古次第「日本武道大系第三巻」p32

 参考

 高田源左衛門系の神信影流では伝系に小笠原玄信の名は登場せず、上泉信綱から針ヶ谷五郎右衛門となっています。加藤田神陰流では上泉信綱から小笠原玄信となっていますが、師系集傳(鈴鹿家文書)では愛洲移香、愛洲小七郎、神後伊豆守、柳生但馬守、那賀弥左衛門など多数のシンカゲ流の先師が列記されています。おそらく後世に追加されたものでしょう。

参考文献

「夕雲流剣術書 全」国立公文書館
山森武太夫「神信影流初之巻」延享元年(1744,金沢市立近世資料館河野文庫
「第五十八号 加藤田文書 師系集傳」天保十四年(1843,鈴鹿家文書



2020年4月10日金曜日

真心陰流と無住心剣術と燕飛 第ニ回 真心陰流のエンピ



2回 真心陰流のエンピ

 次に、真心陰流の各分派について、目録の最初の部分を比較してみます。なお、目録の最初の部分はかなり共通しているのですが、後半は系統によってかなり違いがあります。そのため、原型を残しているであろう、最初の部分を見てみる事にします。

 比較してみたのは前回の伝系図の以下、下線赤字の人物が発給したものです。

真心陰流系図

小笠原源信長治(真新陰流?真心陰流?)
小笠原玄信義晴(真之心陰流)
│└合馬市兵衛義重相馬中村藩
針ヶ谷夕雲(真心陰流、無住心剣術)
││└高田能種(神之信影流、加賀藩
││ └山森武太夫俊清
││  └山森武太夫近陳
│└片岡伊兵衛(真心陰流、黒田家
│ └中村権内(真心陰流)
│  └加藤田新作(真神陰流)
│   └加藤田平八
│    └加藤田新八
│     └加藤田平八郎
神谷傳心斎(直心流)
高橋重治(直心正統流)
└山田一風斎(直心正統流)
長沼国郷(直心影流)

 系統としては、小笠原義晴系・針ヶ谷系・神谷系の三系統と言えます。

 小笠原義晴の目録、中村藩の真心陰流(真陰流とも)、加藤田神陰流、直心正統流(直心影流)三派について、最初の部分(一刀両断等)を比較して見ました。今回例に出した流派はどれも良く似ています。もちろん、この先の目録は各流派でかなり異なっています。

小笠原義晴系

1、真之心陰流兵法目録

真之心陰兵法目録 
                          
一圓相 不行不帰不留

 圓飛
  参學
一 一刀両断
一 右轉左轉
一 長短一味
 五輪擱
一  和ト
一  秘勝
一  八重垣
一  按車
一  五関一劔
 丸橋
 天狗集
(以下略)

小笠原玄信義晴より小林市郎右衛門 寛文十年(小田原市立図書館藤田西湖文庫)

1、剣術真之心陰流兵法目録

  真之心陰兵法目録
圓飛
 一刀両断
 右転左転
 長短一味
  五輪捔
和卜 秘勝 八重垣
五関一剣
 天狗所 並 丸橋
(後略)

相馬中村藩 剣術真之心陰流目録(中村藩伝 合馬市兵衛義重 写し)

針ヶ谷系

1、神信影流目録

 鹿嶋大明神
  神信影流

一 遠備
一 一刀
一 右切左切
一 長短一身

 九加
一 逆風
一 和卜
一 多方切
一 當蓮
一 必勝
一 水砂輪
一 捻入
一 剣割
一 悉定

 天狗書
(後略)

山森武太夫より河野左太夫「鹿島大明神神信影流目録」寛保3年、金沢市立近世資料館河野文庫

遠備は印可巻である「エンヒハソウの事」で
エンヒノエンノ字ハエンドンカイ(円頓戒)ノエン字ニテエンマンニソナエルトイウ事ナリ 
「エンヒの字は円頓戒のエン字にて円満に備えるという事なり」とあるので、元々は真之心陰流と同じく円の字を使っていたと思われます。また、目録には丸橋がありませんが、印可巻では丸橋の稽古方法について解説があります。

2、神陰流(真神陰流)

 神陰流剱術目録

夫剱術者神儒仏為
(中略)
 表之術太刀合
一 八相剣
一 一刀両断剣
一  誓眼剣
一 長短一味剣

 二刀合
(後略)


神陰流剣術目録(加藤田神陰流、加藤田平八郎より原善蔵 慶応四年 著者蔵)

神谷系

1、直心流

  神谷傳心六十七歳ニテ一流見出シ
  直心流ト極致傳授ニ付改兵法根元
(中略)
一 表四組ト極過去現在未来三ツ之躰
八相 一當 重端一身 右天 左天
   頭端無相打
(後略)

『直心流神谷伝心斎改兵法根元書附』(秋元大輔氏蔵) 中村民雄,剣道事典より。



※ほかと並びが違いますが、これは写しなので元々どういう形式だったか不明です。無相打など、神信影流のエンヒハソウの事に書かれている事や、無住心剣とも関係がありそうです。(無住心剣についての回で言及予定です)

 また、神信影流でも表の四本は過去現在未来の三つの技とされているところが共通しています。(神信影流では初本が過去、二本目は現在、三本目・四本目は未来の技とされています。)

2、直心正統流

  直心正統流兵法目録次第

 八相 発
     
 一刀両断
 右転左転 旋トモ
 長短一味
 圓連 刀連
 体連
右口伝
(後略

高橋弾正左衛門より山田平左衛門へ 延宝7年(1679
中村民雄「幕末関東剣術流派伝播形態の研究(2)」より

3、直心影流

  直心影流兵法目録次第

 八相 発
     
 一刀両断
 右転左転 旋トモ
 長短一味
 龍尾 左右
 面影 左右
 鉄破 進退
 松風 左右
 早舩 左右
 曲尺
 圓連 刀連
 体連
右口伝
(後略)

長沼四郎左衛門より河崎平蔵へ 享保12年(1727
中村民雄「幕末関東剣術流派伝播形態の研究(2)」より

目録内容について

上記を比較すると、一本目が

  1. 円飛(遠備)
  2. 八相(八相剣)

となっているもの二系統がありますが、それ以下は一刀両断(一刀)・右転左転・長短一味の三本と共通しています。

それから先は小笠原義晴系は五輪カク・天狗ショという並びが共通しています。ただし、ほかの系統はかなり違いがあります。(神信影流はクカ・天狗書と新陰流に近い名称となっています)
不思議なのが同じ針ヶ谷系の加藤田神陰流の一本目は「八相剣」、神信影流では「遠備(エンヒ)」と名称が違っている点です。

次の図は真心陰流系図の抜粋と一本目の名称です。



 小笠原義晴系の真之心陰流では、八相に対応する一本目は圓飛という名称です。相馬中村藩の剣術真之心陰流目録や真陰流太刀極意得心巻1によると、円飛はつかい身(仕太刀のことか)が八相、打太刀は車に構えるとあります。

次に針ヶ谷夕雲系の一本目についての使い方です。加藤田神陰流の構えや形はわかりませんが、加賀藩の神信影流については簡単な解説が残っています。金沢市立近世史料館河野文庫、「神之信影流印可状 エンヒハソウノ勝ノ事」に神信影流の形について簡単な解説があり、また天保年間に山森近林より発給された同伝書の翻刻※2が武徳誌に翻刻されています。

それによると、
「構は左身にして太刀を立て持なり、右手のこぶし右乳の上に付程に左手のこぶし左の乳の上に付程に持」
「打太刀は捨の構にして仕太刀のみけんにかけて打なり」
とあり、仕太刀が八相のような構え、打太刀が捨、と直心影流と同じになっています。

次に、現在も伝承されている直心影流の八相発破では、仕太刀は上段から八相、打太刀は捨から上段、と構えています。直心影流の元になった直心正統流では
「仕太刀八相ニ備エル」
とあります

つまり、小笠原義晴・針ヶ谷・神谷の三系統で仕太刀の構えが八相という名称がつかわれています。(打太刀もおそらく共通していてシャ(車・捨))

 ここからは私の推論ですが、古流の形は正式名称以外に通称がある場合があります。圓飛(圓備)が小笠原長治の時代の正式名称で、その構えからこの形を八相と呼称してたのではないか、と思います。

 直心影流にエンピがないのが不思議でしたが、おそらく八相(発破)がエンピ(円飛・燕飛)であろう、というのが今の結論です。また、針ヶ谷夕雲の片手八相からの相討ちというのも、おそらく八相(圓飛)の技がその元になっていると思われます。(次回はこれら技法についてわかる範囲の資料から考えてみます)

1「物部列重写 真陰流許口伝書」日本体育大学 民和文庫
加藤豊明「加賀藩資料より「剣法夕雲先生相伝之書」と「神之信影流印可之書」一冊,武徳93,昭和50年(1975
軽米克尊「直心影流の研究」p158 法定の動作による太刀筋の記述 より

第三回はこちら

2020年4月9日木曜日

江戸時代初期の居合流派の関係について3


3.各系統の比較

 田宮家系、長野系、伯耆流系の目録のうち、古いと思われるものを比較すると、かなりの共通点が見られる。

 今回は全体の目録の比較は省略し、田宮系については紀州本家 [筑波大学武道文化研究会, 1988]・岡山藩(著者蔵)の目録の共通部分を参考に、長野系については比較的共通点の多い一宮左太夫の系統から弘前藩浅利伊兵衛が伝授された目録 [太田尚充, 2010]を、伯耆流系についてはもっとも古いと思われる寛永5(1628)に加々爪八兵衛が発給した目録 [吉田祥三郎, 1936-1940]を採用し比較した。

 比較した表が表ー1である。比較してみると、伯耆流系の目録と長野系の目録、田宮家系の目録はかなり共通点が見られることがわかる。共通する部分を色分けした。(赤字は全系統にあるもの、紫字は田宮系と長野系にあるもの、緑字は長野系と伯耆流系、田宮系と伯耆流系にあるもの)

 田宮家系、長野系については立合(互いに立った状態での抜刀組太刀)や合口(いわゆる剣術)などの体系も共通点があるが今回は居合の比較ということで省略した。

表ー1 各系統の目録・体系

三系統の共通点

 三系統の体系を比較し共通点を探すと以下のようにいえる。
  1. 最初の段階で向・左・右の三方向の敵への対処がある。
  2. 次の段階は系統によって違う。居合の上級技か。
  3. さらに次の段階は系統によって外物・極意などと名称は違うが、目録の内容については共通点が見られ、二人の敵や後の敵などへの対処技と見られる名称が並ぶ。
  4. さらにその後に十二ヨウという名称の体系がある。

三系統の相違点

 次に三系統の違いをあげる。

流派の体系

 最初の部分では田宮家系は向身5本と左身3本を表八ヶとし、長野系は向身7本・右身5本・左身5本をそれぞれの巻に分けている。ただしこの二系統では名称の大半や目録の順序が共通しており、同系統の流派であると推測される。
 これに対して伯耆流系では最初の部分をとし、その中に四本、左身2本、右身2本という体系である。

立技抜刀の体系

 田宮家系・長野家系ともに居合の名称の通り、向から十二ヨウまで全て座り技である(外物の一部は立技である可能性がある)。
 それに対して伯耆流系では 現存の星野派・熊谷派などの実技や形を説明した史料からの推測すると、中段の段階ですでに立位での抜刀術が含まれている。また中段の段階は伯耆流独自の名称が多い(ただし土屋市兵衛系の多宮流では伯耆流系の中段と同じ形名が散見される)

まとめ

 伯耆流系や紀州田宮流系では林崎甚助もしくは田宮平兵衛についての言及は伝書上では全く見られない。しかし、上記の共通点からこの三系統は無関係の流派とは考えられず、林崎甚助もしくは田宮平兵衛の段階で関係があったと思われる。もしくは今回は記述していないが、片山伯耆守・長野無楽斎などの生没年・活躍時期から推測すると、紀州田宮初代の田宮対馬守長勝と他の二者に関係があった可能性も考えられる。

 今後はさらに古い史料・記録を収集調査し、林崎甚助・田宮平兵衛に遡る居合の実体を追及していきたい。

引用文献

1.森林建一.(2013.5.14). blog『Echo返照』六本目 開抜 その4.
2.吉田祥三郎. (1936-1940). 聴潮館叢録. 別巻之4.
3.錦谷雪・山田忠史. (1978). 増補大改訂武芸流派大事典. 東京コピイ出版部.
4.山田次朗吉. (1925). 日本剣道史. 東京商科大学剣道部.
5.森田栄. (1987). 東軍流兵法史. NGS.
6.太田尚充. (2010). 弘前藩の武芸文書を読む. 水星舎新書.
7.筑波大学武道文化研究会. (1988). 武道伝書集成 田宮流兵法居合. 筑波大学武道文化研究会.
8.朝倉一善. (2008). 居合道の祖 林崎甚助の実像. 居合道虎の巻 其の一, 85.
9.友添秀則・和田哲也・梅垣明美. (1987-09 ). 片山流剣術伝書「幣帚自臨伝」に関する一考察. 香川大学教育学部研究報告, p1-38.

(初出:201610月)


2020年4月9日追記

『Echo返照』田宮流の種類について2020年4月8日) こちらのブログで田宮流という名称をつかう流派にいくつかの系統があることがまとめられています。大変参考になります。


2020年4月7日火曜日

江戸時代初期の居合流派の関係について2

2 江戸時代初期の居合三流派


図-1 江戸時代初期の居合流派の関係

 図‐1で言及されている古い居合三系統、田宮家系、長野系、伯耆流について簡単に説明する。

2.1 田宮家系

 最初池田輝政に仕え、のちに紀州徳川家に仕えた田宮対馬守長勝を祖とするグループ。長勝は武芸小傳では田宮平兵衛重正の子とされているが、田宮家の伝承では、長勝の父は対馬守(諱不明)で長勝が幼少の頃加賀の合戦で戦死、とされている [筑波大学武道文化研究会, 1988]。
 田宮家を祖とする系統では林崎甚助の名前が無いものも見られるが、長野系と目録の内容については大部分が共通している。系統によっては田宮対馬守長勝=田宮平兵衛業正と取れるような記載の系統も存在する。二代目掃部介長家以降全国へ広まる。



田宮対馬守長勝(常円)
├江田義左衛門(田宮神剣流)
└田宮掃部介(平兵衛)長家
 ├斎木三右衛門清勝(江戸へ、窪田派など)
 ├田宮岡之丞(福井松平藩)
 ├田宮与左衛門(徳島藩)
 ├岡野右太夫(岡山池田藩)
 └田宮三之助朝成


写真-1 備州岡山藩田宮流目録(著者蔵)


2.2 長野系

 長野無楽斎謹露を通す系統。会津を中心に伝承された沼澤甚左衛門長政の系統(林崎新夢想流・無楽流など)では田宮平兵衛を省き、無楽斎は林崎甚助の直弟子と伝承しているが、その他の系統では田宮平兵衛の名があり、庄内藩などに伝承された白井庄兵衛の系統や盛岡藩・中津藩の一宮左太夫の系統では田宮流を名乗っていた。

林崎甚助重信
└田宮平兵衛照常(成正)
  └長野無楽斎謹露
   ├ 一宮左太夫照信
   │├谷小左衛門季正(弘前・水戸ほか)
   │├本田治部右衛門忠成(秋田)
   │└武川与兵衛信重(中津・盛岡)
   ├白井庄兵衛成近(庄内ほか)
   ├沼澤甚左衛門長政(会津・秋田ほか)
   ├上泉権右衛門秀信(尾張)
   ├百々軍兵衛光重(長谷川英信流へ)
   └ほか

 田宮平兵衛の諱が一宮照信系では照常 [太田尚充, 2010]、白井成近系では成正となっており、田宮平兵衛とそれぞれの系統の祖の諱に共通させていて、二祖との関係を作っているように見える。各系統で田宮平兵衛の諱が違っているところをみると、長野無楽斎から一宮、白井へ与えられた系図には平兵衛の諱は記載されていなかったのではないか。

 なお、一宮左太夫と沼澤甚左衛門は鳥居忠政、白井庄兵衛は酒井忠勝に仕えていたが、鳥居忠政は元和8年(1622)以前は下総矢作、酒井忠勝も元和8年以前は信濃松代だった。沼澤甚左衛門は会津の記録によると最上で長野無楽斎に師事した、とあるのでおそらく元和8年以降に長野に入門したと思われ、おそらく同僚の一宮左太夫も同様であろう。

 また、これらの他に、田宮平兵衛を祖とする流派に以下の二つがある。

水戸藩田宮流系

 山下又兵衛以来水戸藩に伝わり、伝承者に新田宮流で有名な和田平助がいる。水戸藩の他に香川などに伝承した。 [錦谷雪・山田忠史, 1978]

林崎甚助重信
└田宮平兵衛重正
 └三輪源兵衛
  └山下又兵衛
   └朝比奈夢道
    ├朝比奈浅之衛門
    └和田平助(新田宮流)

土屋市兵衛系(多宮流)

 土屋市兵衛は小田原征伐~関ヶ原の合戦の頃まで池田輝政に仕え、後に松平光長に仕えた。武芸小傳にも居合の名人として名前がある。三代目土屋市兵衛まで伝わった後、加賀藩へも伝わり藩校経武館で教えられた。

林崎大和守吉家
└林崎甚助重吉
 └田宮平三郎業正
  └土屋市兵衛良住

 以上が現在までのところ、調査できた範囲で把握できた江戸時代前期までに存在したと思われる田宮流関係の流派である。

 なお、山田次朗吉『日本剣道史』で紹介され、以降多くの武術系処刑で言及される林崎甚助の甥高松勘兵衛の流派、一宮流は、史料が18世紀以降のものしか見られず、他の系統との伝系上や伝承上の共通点が無いため今回は考察から省いた。『日本剣道史』で言及される田宮平兵衛重正が最初に学んだとされる東下野守の神明夢想東流についても、武芸小傳以外の資料が見当たらないため同じく省いた。

2.3 伯耆流系

 つぎに伯耆流系について記載する。

 伯耆流は居合文化研究会で調査した結果、各地に17世紀前半の古い史料が多く残っている事がわかった。これに対して田宮流系では伝書類はそれほど多く残っておらず、見つかった範囲では1640年あたりのものが最古のようである。後述するように、片山久安は慶長年間に京周辺で多くの門弟を抱えていた事、片山一族で流儀を広めたものが複数いたこと、などの理由により田宮流より多くの史料が残ったのではないかと思われる。

写真-2 當流居合目録 肥後藩の伯耆流 熊谷派野田系(著者蔵)

 片山伯耆守久安は慶長元年(1596)、22歳の時に愛宕山にこもり、夢中で一老人に会い流派を開眼、多くの門弟を育てる。慶長十五年(1610)36歳の時、参内し演武を天覧、以降伯耆守を名乗る。

 調査した範囲では、伯耆流関係の史料は、片山九郎左衛門の系統のもの(寛永5年(1628)) [吉田祥三郎, 1936-1940]、浅見一無斎(後に肥後藩に伝わる)系統のもの、片山久安の甥 [森田栄, 1987]という片山一角の系統(延宝8年(1680))、片山大学久明(福井藩に伝わる)などの史料がある。またWEBサイト『武術の古文書』に肥後星野家に伝わった、片山久安が発給した『當流居合太刀之事』元和二年(1616)が紹介されている※。

片山伯耆守久安(家次)
├片山九郎左衛門家政
│└片山勘香光政
│ └加々爪八兵衛尉正治
├片山大学久元
│└片山一角元次(久安の甥)
├片山大学久明
├片山伯耆守久隆
└浅見一無斉正次
 └山中弥太郎

 この中で片山九郎左衛門系は、4代目加々爪八兵衛が寛永15年(1638)付近に免状を発給しているため、おそらく九郎左衛門は久安の初期の弟子ではないかと考えられる。この時片山久安は66歳で健在である。また、片山大学久元の弟子、片山一角については、一角について言及した紀州金田家の史料 [森田栄, 1987]があり、そこでは片山久安の甥とされている。とするとその師の片山大学久元は久安の弟であろうか。

次回はこちらです。


※現在(2020年4月現在)、公開されていない。
※人名誤記を修正。田宮与左衛門を田宮与兵衛としていた。(2021年9月17日)