2020年4月7日火曜日

江戸時代初期の居合流派の関係について2

2 江戸時代初期の居合三流派


図-1 江戸時代初期の居合流派の関係

 図‐1で言及されている古い居合三系統、田宮家系、長野系、伯耆流について簡単に説明する。

2.1 田宮家系

 最初池田輝政に仕え、のちに紀州徳川家に仕えた田宮対馬守長勝を祖とするグループ。長勝は武芸小傳では田宮平兵衛重正の子とされているが、田宮家の伝承では、長勝の父は対馬守(諱不明)で長勝が幼少の頃加賀の合戦で戦死、とされている [筑波大学武道文化研究会, 1988]。
 田宮家を祖とする系統では林崎甚助の名前が無いものも見られるが、長野系と目録の内容については大部分が共通している。系統によっては田宮対馬守長勝=田宮平兵衛業正と取れるような記載の系統も存在する。二代目掃部介長家以降全国へ広まる。



田宮対馬守長勝(常円)
├江田義左衛門(田宮神剣流)
└田宮掃部介(平兵衛)長家
 ├斎木三右衛門清勝(江戸へ、窪田派など)
 ├田宮岡之丞(福井松平藩)
 ├田宮与左衛門(徳島藩)
 ├岡野右太夫(岡山池田藩)
 └田宮三之助朝成


写真-1 備州岡山藩田宮流目録(著者蔵)


2.2 長野系

 長野無楽斎謹露を通す系統。会津を中心に伝承された沼澤甚左衛門長政の系統(林崎新夢想流・無楽流など)では田宮平兵衛を省き、無楽斎は林崎甚助の直弟子と伝承しているが、その他の系統では田宮平兵衛の名があり、庄内藩などに伝承された白井庄兵衛の系統や盛岡藩・中津藩の一宮左太夫の系統では田宮流を名乗っていた。

林崎甚助重信
└田宮平兵衛照常(成正)
  └長野無楽斎謹露
   ├ 一宮左太夫照信
   │├谷小左衛門季正(弘前・水戸ほか)
   │├本田治部右衛門忠成(秋田)
   │└武川与兵衛信重(中津・盛岡)
   ├白井庄兵衛成近(庄内ほか)
   ├沼澤甚左衛門長政(会津・秋田ほか)
   ├上泉権右衛門秀信(尾張)
   ├百々軍兵衛光重(長谷川英信流へ)
   └ほか

 田宮平兵衛の諱が一宮照信系では照常 [太田尚充, 2010]、白井成近系では成正となっており、田宮平兵衛とそれぞれの系統の祖の諱に共通させていて、二祖との関係を作っているように見える。各系統で田宮平兵衛の諱が違っているところをみると、長野無楽斎から一宮、白井へ与えられた系図には平兵衛の諱は記載されていなかったのではないか。

 なお、一宮左太夫と沼澤甚左衛門は鳥居忠政、白井庄兵衛は酒井忠勝に仕えていたが、鳥居忠政は元和8年(1622)以前は下総矢作、酒井忠勝も元和8年以前は信濃松代だった。沼澤甚左衛門は会津の記録によると最上で長野無楽斎に師事した、とあるのでおそらく元和8年以降に長野に入門したと思われ、おそらく同僚の一宮左太夫も同様であろう。

 また、これらの他に、田宮平兵衛を祖とする流派に以下の二つがある。

水戸藩田宮流系

 山下又兵衛以来水戸藩に伝わり、伝承者に新田宮流で有名な和田平助がいる。水戸藩の他に香川などに伝承した。 [錦谷雪・山田忠史, 1978]

林崎甚助重信
└田宮平兵衛重正
 └三輪源兵衛
  └山下又兵衛
   └朝比奈夢道
    ├朝比奈浅之衛門
    └和田平助(新田宮流)

土屋市兵衛系(多宮流)

 土屋市兵衛は小田原征伐~関ヶ原の合戦の頃まで池田輝政に仕え、後に松平光長に仕えた。武芸小傳にも居合の名人として名前がある。三代目土屋市兵衛まで伝わった後、加賀藩へも伝わり藩校経武館で教えられた。

林崎大和守吉家
└林崎甚助重吉
 └田宮平三郎業正
  └土屋市兵衛良住

 以上が現在までのところ、調査できた範囲で把握できた江戸時代前期までに存在したと思われる田宮流関係の流派である。

 なお、山田次朗吉『日本剣道史』で紹介され、以降多くの武術系処刑で言及される林崎甚助の甥高松勘兵衛の流派、一宮流は、史料が18世紀以降のものしか見られず、他の系統との伝系上や伝承上の共通点が無いため今回は考察から省いた。『日本剣道史』で言及される田宮平兵衛重正が最初に学んだとされる東下野守の神明夢想東流についても、武芸小傳以外の資料が見当たらないため同じく省いた。

2.3 伯耆流系

 つぎに伯耆流系について記載する。

 伯耆流は居合文化研究会で調査した結果、各地に17世紀前半の古い史料が多く残っている事がわかった。これに対して田宮流系では伝書類はそれほど多く残っておらず、見つかった範囲では1640年あたりのものが最古のようである。後述するように、片山久安は慶長年間に京周辺で多くの門弟を抱えていた事、片山一族で流儀を広めたものが複数いたこと、などの理由により田宮流より多くの史料が残ったのではないかと思われる。

写真-2 當流居合目録 肥後藩の伯耆流 熊谷派野田系(著者蔵)

 片山伯耆守久安は慶長元年(1596)、22歳の時に愛宕山にこもり、夢中で一老人に会い流派を開眼、多くの門弟を育てる。慶長十五年(1610)36歳の時、参内し演武を天覧、以降伯耆守を名乗る。

 調査した範囲では、伯耆流関係の史料は、片山九郎左衛門の系統のもの(寛永5年(1628)) [吉田祥三郎, 1936-1940]、浅見一無斎(後に肥後藩に伝わる)系統のもの、片山久安の甥 [森田栄, 1987]という片山一角の系統(延宝8年(1680))、片山大学久明(福井藩に伝わる)などの史料がある。またWEBサイト『武術の古文書』に肥後星野家に伝わった、片山久安が発給した『當流居合太刀之事』元和二年(1616)が紹介されている※。

片山伯耆守久安(家次)
├片山九郎左衛門家政
│└片山勘香光政
│ └加々爪八兵衛尉正治
├片山大学久元
│└片山一角元次(久安の甥)
├片山大学久明
├片山伯耆守久隆
└浅見一無斉正次
 └山中弥太郎

 この中で片山九郎左衛門系は、4代目加々爪八兵衛が寛永15年(1638)付近に免状を発給しているため、おそらく九郎左衛門は久安の初期の弟子ではないかと考えられる。この時片山久安は66歳で健在である。また、片山大学久元の弟子、片山一角については、一角について言及した紀州金田家の史料 [森田栄, 1987]があり、そこでは片山久安の甥とされている。とするとその師の片山大学久元は久安の弟であろうか。

次回はこちらです。


※現在(2020年4月現在)、公開されていない。
※人名誤記を修正。田宮与左衛門を田宮与兵衛としていた。(2021年9月17日)

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