1.はじめに-居合中興祖林崎甚助と田宮平兵衛‐
現在居合道としてしたしまれている武道、居合の中興祖は林崎神社で居合に開眼した林崎甚助重信と伝承されている。また長野無楽斎が広めた流派(林崎新夢想流・田宮流)や水戸藩の田宮流などの流派で開祖とされている。しかし、この人物は謎が多い。
現代の居合道関係の書籍を見ると、「北面の武士浅野数馬の嫡男で、父の敵坂上主膳を討つために修行し居合に開眼した」 [朝倉一善, 2008]などとされている。この説は講談調であり、いつ頃まで遡れる伝承かも不明で素直に首肯し難い説である。また、甥高松勘兵衛の系統とする一宮流傳書「太白成伝」にある「相模生まれで元和3年に甥の元から奥州の元に去った」という説 [山田次朗吉, 1925]も、「太白成伝」の成立が18世紀前半であり、年月日や内容についての記載が詳細すぎて物語調であり、こちらも素直に首肯し難い説である。また、江戸初期の記述である北条五代記にある説では「長柄刀を始めた人物で、田宮平兵衛の師匠」という事しかわからず、結局不明な点の多い人物といえる。
また、林崎甚助の弟子、田宮平兵衛は長野無楽斎、三輪源兵衛、土屋市兵衛の師匠である。このほかに神明夢想東流東下野守や高松勘兵衛、長野無楽斎が林崎甚助の弟子とされるが、居合文化研究会で調査した範囲の17世紀頃の史料には東下野守や高松勘兵衛は見つからず、長野無楽斎を林崎甚助の直弟子とするのは後述する会津藩沼澤甚五左衛門長政の系統に独特の伝承である。(この系統では田宮平兵衛は系図に入っていない)
また、江戸時代初期から居合で有名な人物として伯耆流片山伯耆守久安がいる。伯耆流の江戸初期の伝書によれば、慶長元年から機内で居合を伝授しており師匠については書かれていない(片山家の17世紀半ばの史料「幣帚自臨伝」によれば伯父の松庵などに学んだとされる [友添秀則・和田哲也・梅垣明美, 1987-09 ])。ただし後述するように伯耆流の古い資料にあらわれる流派の体系は、紀州田宮家の田宮流や長野無楽斎が伝えた流派と共通する部分が多い。また久安は伯耆守を名乗る前から機内で活躍しているため、同時期に機内にいたと思われる田宮対馬守長勝や土屋市兵衛(後述)との関係も窺える。
よって今まで調査した範囲では、実質的に居合を広めた人物は林崎甚助ではなく田宮平兵衛ではないかと著者は推測している。その調査の過程で作成した、江戸時代初期の史料に見られる流派についての関係を図―1にあらわした。
図-1 江戸時代初期の居合流派の関係
図を作成するにあたって調査した資料については現在まだ整理前なので、今回はイメージとしてのみ紹介する。
- 田宮流田宮家系(以下、田宮家系とする)
- 田宮流長野系(同様に長野系とする)
- 伯耆流系
(2.江戸時代初期の居合三流派 に続く)
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