よく針谷夕雲の流派は四十代の改悟以降は「無住心剣術」とされています。
おそらく無住心剣術は俗称で、無住心剣術という自身の境地名乗っただけで流派としての看板は真心陰流だったのではないかと思われますが、ここではそれについては省きます。
ところで、こんな記録があります。
ふるさと人物誌37 三奈木黒田家を救った忠臣「鬼木佐太夫宗直」
こちらに無住心剣術とされる片岡伊兵衛秀安、中村権内安成の流派名が「真心陰流兵法」と言及されています。中村の弟子で加藤田神陰流で知られる加藤田新作の流派が真神陰流もしくは神陰流である所から考えると、片岡伊兵衛が針ヶ谷夕雲から習った剣術の流派名は真心陰流だったのではないかと思われます。
ここで、針ヶ谷夕雲、神谷傳心などの師とされる小笠原源信斎長治、その流派名についてですが、近世に全国に隆盛し、近代に至って剣道に大きな影響を与えた直心影流、その伝書「兵法伝記※1」では真新陰流とされています。そのためか、下川潮の「剣道の発達」をはじめ、近代の剣道史に関する書籍でも真新陰流の名称が踏襲されているようです。
残っている史料を見ると、小笠原ゲンシン斎の流派としては、土佐藩・福井藩・相馬中村藩の記録では先ほどの三奈木黒田家と同じく真心陰流となっています。
ところで、真心陰流の小笠原ゲンシン斎ですが、二代居た可能性があります。
- 針ヶ谷夕雲および神谷傳心の師は小笠原源信斎長治。
- 加藤田神陰流の伝書では小笠原上総源信斎長治。
- 中村藩および土佐藩の系統の伝書では小笠原上総入道玄信義晴
になっています。ちなみに加賀藩に伝わった神信影流(神之信影流)では、張谷(針ヶ谷)五郎右衛門(夕雲)の師は上泉伊勢守となっています。※2
小田原市立図書館には寛文13年(1673)に小笠原玄信が土佐藩の小林市郎右衛門に出した伝書(の写し)「真之心陰兵法免状」※3がありますが、それも義晴となっています。武芸帖別冊17号「末流兵法の系譜(上)」では「小林は慶安二年(1649)出生・年代からみて源(玄)信斎の門人とは信じられない」としています。(ちなみに土佐藩へ真之心陰流を伝えた小林市郎衛門は1709年に61歳で亡くなっています)
前述のとおり、年代から考えて玄信義晴が針ヶ谷夕雲(1600頃?-1669)や神谷傳心斎(1581-1663)の師匠の源信斎長治とは考えづらいので、二代目の可能性が高いと思われます。しかし中村藩の真心陰流の伝書では小笠原上総入道玄信義晴の前に上泉等の名前は出てきますが、長治の名前は出てきませんので推測の域をでません。
小笠原ゲンシン斎が二代続いたとすると、その系図としてはこんな感じでしょうか。
真心陰流系図
小笠原源信長治(真新陰流?真心陰流?)
・小笠原玄信義晴(真之心陰流)
・・合馬市兵衛(真陰流・真之心陰流、相馬中村藩)
・・・早川孝治(真心陰流、相馬中村藩)
・・小林市郎衛門(真心陰流、土佐藩)
・針ヶ谷夕雲(真心陰流、無住心剣術)
・・高田能種(神之信影流、加賀藩)
・・片岡伊兵衛(真心陰流、黒田家)
・・・中村権内(真心陰流)
・・・・加藤田新作(真神陰流、加藤田神陰流)
・・小出切一雲(無住心剣術)
・・・真理谷円四朗(無住心剣術)
・・・井鳥巨雲(雲弘流)
・神谷傳心斎(直心流)
・・高橋重治(直心正統流)
・・・山田一風斎(直心正統流・直心影流?※4)
・・松岡猪太夫(直心流)
※1 今村 嘉雄, 小笠原 清信, 岸野 雄三「日本武道全集第七巻」,1967 直心影流初伝目録ほか(萩原家蔵)
※2 「神信影流初巻」,山森武太夫,延享元年(1744),金沢市立近世資料館 河野家文庫
※3 小笠原上総入道源玄信義晴「73-285-076 真之心陰兵法免状」,寛文13年(1673),小田原市立図書館藤田西湖文庫
※4 軽米克尊「直心影流に関する研究」によると、山田一風斎はあくまで直心正統流の二代目で、直心影流を名乗ったのはその子の長沼国郷ではないか、ということです。
参考文献:
二上文彦「中村藩の剣術1 「真陰流」と「真心陰流」の系譜・師範家の動向」,平成18年(2006),南相馬市博物館 研究紀要 第8号
0 件のコメント:
コメントを投稿