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真心陰流のエンピの技法について検討する前に、小笠原玄信の師について考えてみます。
一般的に小笠原玄信の師は奥山休賀斎とされています。ですが、これは直心影流に独特の伝承で、加藤田神陰流・神信影流・無住心剣術等の小笠原玄信系統の流派の伝承に奥山休賀斎は登場しません。私個人としては、小笠原玄信は柳生石舟斎の孫弟子もしくはひ孫弟子ではないかと考えています。今後の記事の中でその点についても書いていく予定ですが、まずは、小笠原系統で流儀の伝承についてどのように語られているかについて、無住心剣術の針ヶ谷夕雲(五郎右衛門)の『夕雲流剣術書 全』を中心に小笠原系諸流の伝承・傳系について見ていきます。
真心陰流のエンピの技法について検討する前に、小笠原玄信の師について考えてみます。
一般的に小笠原玄信の師は奥山休賀斎とされています。ですが、これは直心影流に独特の伝承で、加藤田神陰流・神信影流・無住心剣術等の小笠原玄信系統の流派の伝承に奥山休賀斎は登場しません。私個人としては、小笠原玄信は柳生石舟斎の孫弟子もしくはひ孫弟子ではないかと考えています。今後の記事の中でその点についても書いていく予定ですが、まずは、小笠原系統で流儀の伝承についてどのように語られているかについて、無住心剣術の針ヶ谷夕雲(五郎右衛門)の『夕雲流剣術書 全』を中心に小笠原系諸流の伝承・傳系について見ていきます。
参考:真心陰流系図
小笠原源信長治
├小笠原玄信義晴(真之心陰流)
├針ヶ谷夕雲(真心陰流、無住心剣術)
││└高田能種(神之信影流、加賀藩)
││ └山森武太夫俊清
││ └山森武太夫近陳
│└片岡伊兵衛(真心陰流、黒田家)
│ └中村権内(真心陰流)
│ └加藤田新作(真神陰流)
│ └加藤田平八
│ └加藤田新八
│ └加藤田平八郎
└神谷傳心斎(直心流)
└高橋重治(直心正統流)
└山田一風斎(直心正統流)
└長沼国郷(直心影流)
小笠原玄信と針ヶ谷の歴史認識
『夕雲流剣術書 全』(国立公文書館、日本武道全集七巻などに掲載)は小田切一雲が師の夕雲とその剣術について書いた書です。針ヶ谷の時代(17世紀)の江戸の兵法者および小笠原玄信の直弟子が語った事が記録されているという点で貴重な証言があります。
夕雲は生年不明、没年は1669年に60代で亡くなったとされています。また、学のある人物では無かったともされています。つまり、戦国時代については実体験では無く伝聞ですが、江戸時代初期の江戸在住兵法者の一般的な認識に近いと考えてもよいと考えます。
針ヶ谷夕雲の談話として
「世より百年計以前迄は、兵法さのみ世間にはやらず。(略)武士安座の暇なく、毎度甲冑兵仗を帯して戦場に臨で直に敵に逢て、(略)数度の場に逢て、自己の勝理を合点して、内心の堅固にすわる事、当世諸流の秘伝極意と云物よりも猶たしかなる者多し。」
「近代八九十年此方、世上も静謐になり干戈自ら熄み、(略)勝理の多く、負る理の少きかたを詮議して勤習する事、武士のたしなみと成て、木刀しない(革袋)などに互の了簡を合せ試みる事、兵法の習ひと成て、(略)秀吉公の天下を治め玉ふ時分に当つて、鹿島の生れに上泉伊勢と云ふ者有て、兵法中興の名人なり。それまで日本にある流には、鹿島流・梶取流・神刀流・戸田流・卜伝流・鞍馬流など云て、日本国中に漸く六七流のみなり。」
「上泉は世間に勝れて所作も上手にて、道理も向上なるに依て諸人信仰す。初は神刀流なれども、所得の事ありて神陰と流の名を改めて、諸国を修行して、後は伏見の里に住居して、秀頼公の旗本其外の諸侍に兵法を指南し、弟子三千人に及べり。」
とあります。つまり、夕雲(1669年没)が一雲に教えていた時期(1650年代後半-1660あたり?)から100年以上前は兵法を学ぶものはそれほど多くいなかった、というのが夕雲の世代の認識だったのでしょうか。
また、上泉が鹿島の生まれで神刀流から出たとされ、陰流についての話が無いのも興味深い点です。
神谷伝心から出た直心影流が鹿島神傳を名乗っていること、針ヶ谷の弟子である高田源左衛門の系統が鹿島大明神神之信影流を名乗っていることなどと合わせて考えると、小笠原玄信は上泉は(鹿島の)神刀流から出たと考えており、弟子にもそう教えていた可能性がありそうです。神刀流については、鹿島に鬼一法眼の秘伝書があることや、鞍馬流が鹿島に在ること※1など、かなり詳しく語られており、針ヶ谷や小笠原はかなり鹿島の流儀について詳しかったと思えます。ただ、針ヶ谷は鬼一法眼を兵法の源流としており、神刀流も鬼一法眼の影響下に成立したと考えていたようで、この点が直心影流の鹿島神傳の伝承とは相違している点です。
また、さきほど書いたように陰流について全く言及が無い点などから、どうやら小笠原玄信やその弟子たちは新陰流の歴史や人物については詳しくなかったようです。夕雲流剣術書では上泉について、
- 四人の印可弟子がおり、それは柳生但馬、挽田文五郎、小笠原玄信、戸田清源の四人(比較的有名な丸目蔵人や神後伊豆守などについて認識されていない)
- 上泉が伏見に住んで秀頼公の旗本等に教えた(秀継に仕えた疋田か京で教えていたという神後の逸話が歪んで伝わった?)※1
- 戸田清源が上泉の四人の印可弟子の一人で、加賀に行き戸田流の家を継いだ。(実際は冨田勢源はそもそも生まれが冨田家であるし、冨田家は継いでおらず、加賀に住んでもいない。加賀にいたのは弟の冨田景政)
九州で有名な丸目蔵人、京都で活躍した神後伊豆守等の名前が無い、シントウ流に詳しく、中條流に詳しくない、などの点から小笠原玄信は関東の育ちではないかと思われます。(ただ、なぜ挽田について詳しいのかはわかりません。江戸では疋田系統の流派が教えられていたようなのでその影響でしょうか)
また、小笠原玄信の二代目と思われる小笠原義晴系では、多くの場合上泉信綱から小笠原義晴となっています。各系統の伝系をまとめると、
- 無住心剣術系(小田切・中村系):上泉信綱から小笠原玄信
- 神信影流:上泉信綱から針ヶ谷五郎右衛門
- 直心影流:奥山休賀斎から小笠原玄信
- 小笠原義晴系:上泉信綱から小笠原義晴
※1塚原卜伝の高弟である、松岡兵庫助の系統の新当流松岡派などには判官伝十二カ条(義経流ということか)が含まれていました。新當流兵法太刀稽古次第「日本武道大系第三巻」p32
参考
高田源左衛門系の神信影流では伝系に小笠原玄信の名は登場せず、上泉信綱から針ヶ谷五郎右衛門となっています。加藤田神陰流では上泉信綱から小笠原玄信となっていますが、師系集傳(鈴鹿家文書)では愛洲移香、愛洲小七郎、神後伊豆守、柳生但馬守、那賀弥左衛門など多数のシンカゲ流の先師が列記されています。おそらく後世に追加されたものでしょう。
参考文献
「夕雲流剣術書 全」国立公文書館
山森武太夫「神信影流初之巻」延享元年(1744),金沢市立近世資料館河野文庫
「第五十八号 加藤田文書 師系集傳」天保十四年(1843),鈴鹿家文書
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