2025年1月17日金曜日

新当流は念網慈恩の一派である② 表は念流、七條之太刀からが新当流

  「新当流(神道流)は念阿弥慈恩の一派である①」では 伝書の文章から飯篠長威が中古之念流を学んだこと、初条七箇懸具足の前に念流を学んでいたという記述があった事を示しました。今回は新當流各派の体系の共通点や目録から、念流が含まれていること、七條之太刀からが新當流の太刀筋であることを検討していきます。

新當流兵法(剣術)七條之太刀

 新當流の兵法の体系を見てみます。新當流(神道流)では五つの太刀など数字で表された形があることは比較的有名です。失われた極意として卜伝一つの太刀の名前は知られているように思います。

 現存する新當流(神道流)を見ると、表として数字であらわされる太刀があります。例えば香取神道流なら、五津・七津・霞・八箇。飯篠家から分派した師岡一波斎の新當流(※1)では、八箇・九事・五ヶ太刀です。江戸以前に分派した松江と越後に伝わった伝書で同様であるので、これが一派系の表の太刀と思われます。

 ま、現在伝わる塚原卜伝の鹿島新當流では、面太刀十二箇条として一之太刀~六之太刀があり、その後に相車ノ太刀・突身ノ太刀・相霞ノ太刀・巴三ノ太刀・柴隠ノ太刀・柳葉ノ太刀の合計十二本となっています。 しかし、鹿島新當流の吉川家に伝わる「兵法自観照」を見ると、面十二箇条は八箇の太刀・七ツ太刀(九ツ太刀)・十柄剱の三つに分類されるとされています。また、吉川家から分派した水戸の鹿島新当流剣術名義抄では、五ヶ之事、八ヶ之事、七ツ太刀之事、十二ヶ條之事の四つとなっています。これら鹿島新当流の面之太刀は、名称が違うだけで、伝書の覚書を見ると内容は類似しているようです。また、吉川家が学んだ松岡家の伝書を見ると、八箇太刀組・七宛太刀組・十二箇条切合となっています。また、塚原彦四郎の系統である松代藩の神道流では、八箇・七宛・十二箇条とあって松岡家と同じです。卜伝系では系統によって表太刀が(すくなくとも名称は)かなり違っていたようです。

次の表はいくつかの系統の新當流の目録を表之太刀から七条之太刀まで比較してみたものです。香取神道流以外で共通して七條之太刀として引・車・拂・違・薙・乱・縛の七ツが伝授されるようになっています。


七條之太刀

 すべての新當流でみられる七條之太刀ですが、香取神道流でも五行の太刀に引、捨、發があり、極意の名称は七条之太刀となっています(名称は引、捨、拂…とは違います)

 香取神道流、塚原卜伝系以外の新當流系の伝書を見ると、桜井家(松本備前守系)の新當流では太刀は三、七、上段、中段、下段、十二となっています。長刀と鑓を学んで、次に中極位の最初として七条之太刀(引、車、拂…)となっています。また、師岡一羽の系統の伝書(※1)では、八ヶ、九事、五ヶ之太刀、七ヶ条之太刀とあり、次に極意七条之太刀(引、車、拂…)となっています(香取神道流と同じく極意七條之太刀となっています)。門井主悦の系統でも七ツ太刀、五ツ太刀、三ツ太刀、八ツ太刀とあり、次に待具足が七ヶ条、その次に七條仕合之太刀として引、車、拂…の太刀があります。

 門井主悦系と松本備前守、塚原卜伝系に引、車、拂…から始まる七條之太刀があります。飯篠家直系の古い剣術史料は少ないのでよくわかりませんが、飯篠家の門下である師岡家系にも同様に存在する事から、『七條之太刀』は飯篠長威創始の太刀と考えて問題ないと思われます。

※1 「太刀数覚書」松江歴史館蔵。内題に「新當流一派之筋太刀数」とある。

上古流、中古の念流はまた廃するべからず

 ここで桜井家文書「新當流手裏剱口傳」を見ると

「彼手傳授之前先念流高上之隠顕石龕之手可渡其已後新當流初條七ヶ條懸具足相渡後手裡剣秘術可見許者也(かの手(手裡剣)を傳授の前、まず念流高上の隠顕石龕の手を渡すべし。その以後、新當流の初條七ヶ條懸具足を相渡し、のち手裡剣秘術見許すべきものなり。)」

 とあります。「彼の手」(手裡剣秘術でしょうか)を伝授する前に念流の高上、隠顕、石龕を伝授するとしていますが、手裏剱口傳では序文にあったとおり、「隠顕之口傳事」六項目、「清厳 石龕」六項目の合計十二箇条の簡単な解説が書かれています。隠顕は念阿弥慈恩の兵法の極意の一つの陰剣、清厳は青眼に相当すると思われます。石龕についてはよくわかりませんが、この十二項目は実際に念流の兵法であると思われます。(石龕については門井系の目録にある別伝の念流小具足(小太刀?)の中では「石合龍」とされています)

 また、新當流の考え方では上古流、念流は待具足です。門井主悦系では七條仕合之太刀の前に待具足七ヶ条があります。

 次に塚原卜伝系(松岡家)では、十二箇条は判官流とされています。この判官流十二箇条は巴相、柴隠、龍牙、蜻蛉、虎乱入、獅子奮迅、飛鳥翔、夢枕の八つの名称となっています。天真正伝新当流兵法伝脈によると九郎判官義経の判官流(※義経以降が中古流)とされています。

 この表の十二箇条は松本備前守系にも存在していました。桜井家系の十二箇条には形に名称がありませんし、古宇田系の表は名称が不明です。しかし、桜井家から分派した飯篠流の絵目録に十二箇条があります。使われている構えが第五で蜻蛉、第六は虎乱、第七は獅子奮迅、第九は飛鳥構、第十は蛉夢ノ枕となっています。これらの登場する順番が松岡家の判官流十二重と共通しています。

 図‐ 飯篠流剣術(個人蔵)

 十二箇条や判官流に登場する蜻蛉、虎乱(虎乱入)、獅子奮迅、飛鳥翔は念阿弥慈恩の兵法にも同様の名称が存在しています。門井主悦、松本備前守系、塚原卜伝系、これらに共通して七條ノ太刀の前の段階で念流に関わりそうな技が伝授されています。

 これら十二箇条が松岡家の伝承の通りこれは中古流だとすると、手裏剣口伝の通り、念流高上(隠顕・石龕の十二箇条=判官流十二箇条)の次に新當流の初條七ヶ条懸具足(=極意七條之太刀)の伝授と解釈もできそうです。

 つまり、「浅より深に至る」ために「上古流・中古念流もまた廃すべからず」と表の太刀として中古念流(十二箇条=中古念流・無勇の待具足)を残し、基礎が出来た上で、懸具足としての新當流の初條、七條之太刀を教えたという事かもしれません。つまり、七條之太刀からが飯篠長威入道の創始した新當流の太刀筋という事ではないでしょうか。


(続く)


2025年1月11日土曜日

新当流(神道流)は念阿弥慈恩の一派である①

 昭和の頃から「日本剣道の三大源流」として神道流、新陰流、中條流が挙げられています※1。中條流のかわりに念流が入る例も見られましたが、現在では「兵法三大源流」として念流、神道流、陰流が挙げられているようです※2。

 この中の神道流は江戸初期以前は新當流と書き、香取の飯篠長威家直を開祖とする流派です。現在でも飯篠家に伝わった流派が天真正伝香取神道流として現存しており、広く世界的に修行者がいる有名流派です。
 香取神道流のWEBサイトによれば飯篠長威は
流祖の飯篠長威斎家直は、六十余歳にして香取大神に壱千日の大願をたて斎戒沐浴、兵法に励み百錬千鍛を重ね粉骨修業の後、香取大神より神書一巻を授けられ、天真正伝香取神道流を創始したと伝わる。(流派についてより引用)
としています。
 しかし、新當流各派の戦国期の伝書を中心に見ていくと、
飯篠長威入道が修行したのは念阿弥慈恩の流派(中古之念流)である
とはっきり書いてある例が複数見られます。また、長威入道は中古之念流の内容を批判し、新規を打ち立てて新當流を創始した事が書かれています。そして、その序文は上泉信綱の燕飛の序に大きな影響を与えているように見えます。
 以下、伝書および兵法の目録や内容も含めて検討をおこなったものです。

新當流の創始と伝系について

 以下は安土桃山時代までの、新當流の相伝系図の抜粋です。現存する伝書の相伝系図を参考にしているので、誰から学んだか不明である人(上泉信綱)などは入っていませんし、卜伝など多数の門人がいる場合は大幅にカットしています。




 開祖長威には複数の弟子がおり、弟子の代で既に各地に広まっていきました。

 飯篠家からは自顕流、一羽流(師岡一波は卜伝の弟子とされることが多いようですが、相伝系図では飯篠盛近の弟子、柏原河内守の系統です)、宝蔵院流、穴沢流などが現れています。

 塚原卜伝は養父土佐守、義兄の新左衛門と相伝系図を引いています。卜伝は知られている通り数多くの弟子がいたため、図にある新當流松岡派、鹿島新當流、本間流以外にも数多くの流派の元となっています。

 松本備前守は飯篠長威の後、もっとも有力な新當流の師範であったらしく、図以外にも多くの弟子がいました。有馬大和守の系統は徳川家康も学び紀州の有馬流(竹森流)へと繋がります。その他にも松代藩の新當流槍術はこの系統です。小神野越前守は松本備前守の最高弟だったようです。多くの弟子が居ましたが、桜井大隅守、古宇田越前守(小神野の婿)などの系統が広まっています。神道夢想流杖術もこの系統です。

飯篠長威の新當流創始

 開祖飯篠長威は辞典などでは

「香取神宮や常陸(茨城県)の鹿島神宮につたわる武芸から,天真正伝新当(神道)流を創始。松本政信,塚原安幹らをそだて,近世武術の源流となる。※3」

とされています。学んだ流派については言及されていません。

 松本備前守系、門井主悦系および香取修理佐の香取流には手継序という伝書が伝承されていますが、この内容はほぼ共通しています。手継序では新當流の創流について、上古流、中古之念流の名前を挙げ、飯篠長威が中古之念流を学んだとしています。松岡家の伝書では上古流は義経以前の流派、中古之念流は奥山之念阿弥の流派とされています。

 手継序では上古流、中古念流は待のみ(待具足)であるので、飯篠長威が

懸待表裏二種之根源を以て改め新當流を始む

とされています。つまり、新當流は上古流や中古之念流、特に念流が元となっているとされていたのです。

 また、念流との関係では、飯篠盛繁の新當流兵法書(今村嘉雄ほか編(1982)「日本武道大系第3巻」)でも

若狭邦住人飯篠長威奥山自恩兵法秘術伝

と飯篠長威の流派が念流であったとしており、島津家文書の摩利支天大根本巻(天正23年)※4では、飯篠長威は奥山之念阿弥の京六人、関東八人の弟子のうち、関東八人の末とされています。

 手継序では上古流と中古之念流について、

上古流中古之念流是亦不可廃従浅入深雖厚薄窄甚攫雲掴霧巷又愚眼所及也雖然彼両流待具足而元勇以去剣刻舷迯莬守株元活法然懸具足手留得不可勝計此勝知千人英万人傑也

おおよそ読み下すと、

「上古流、中古の念流はまた廃するべからず。浅くより深くに入ることは厚薄をすぼむと雖も、甚だ雲を攫い霧を掴むごとし。また愚眼の及ぶる所なり。彼の両流は待具足にして勇無くして、剣を去って舷を刻み、株を守りて兎を待つに似て活法無し。然れども懸具足手留の徳をあげて計うべからず。」

というようなところでしょうか。ここでは上古流や中古の念流は廃するべからずとしています。(ただし、新當流の懸具足より劣っている事を強調しています)

 実際、桜井家文書「新當流手裏剱口傳」※5には

次師之方別可有引出物仍彼手傳授之前先念流高上之隠顕石龕之手可渡其已後新當流初條七ヶ條懸具足相渡後手裡剣秘術可見許者也

とあります。つまり、念流の高上の技を伝授してから、新當流の初條七ヶ条懸具足を伝授するという事です。この七ヶ条懸具足がどのようなものか不明ですが、新當流で七ヶ条と言えば引、車、払、違、薙、縛、乱の七字の七条之太刀かもしれません。

(次回、新當流兵法の目録と念流に続きます)


2023年11月14日火曜日

武芸流派大事典の新陰流系図についての検証

綿谷雪・山田忠史 編「増補大改訂 武芸流派大事典」は出版から数十年経た現在でも伝統武術について調べる場合の必須の資料です。時代を考えるとすさまじい仕事です。
ですが、昔から知られている通り、間違いが多い事でも知られますし、独自の記述についても出典が書かれていないので検討しようが無い記述も多くあります。

新陰流についても同様です。ですが、新陰流や開祖上泉信綱については研究者も多いので当時より色々とわかっている事も多いと思います(Wikipediaの新陰流の記事も勉強になりますね)
しかし、新陰流の伝系については研究している人は少ないらしく、上泉の弟子として名前があがる人物については大事典とあまり変わっていません。むしろ大事典の方が詳しい事もあるくらいです。

この記事では、武芸流派大事典に上泉信綱の直弟子として名前の挙がっている人物について現在分っている事を簡単に整理して、直弟子とする事が妥当がどうか検討するものです。


武芸流派大事典では、上泉信綱門下として以下の23名の名前があります。

・上泉常陸介秀胤(上泉流軍法)
・上泉主水正憲元(考綱)(会津一刀流)
・三浦将監
・町田兵庫
・疋田豊五郎景兼(疋田陰流)
・神後伊豆守宗治(神後流)
・土屋将監(心陰流)
・柳生宗厳石舟斎(柳生新陰流。永禄八年許)
・宝蔵院胤栄(宝蔵院流槍術。永禄八年許)
・松田織部之助清栄(松田派新陰流)
・羽賀井浅右衛門一心斎(羽賀井流)
・(?)磯端伴蔵
・丸目蔵人佐長恵(タイ捨流。永禄十年許)
・奥山休賀斎公重(神影流・奥山流)
・坂田治太夫安季
・鈴木兵庫助(伊賀守)意伯
・那河弥左衛門
・野中新蔵成常(新神陰一円流)
・高島太郎左衛門長正(羽生主水)
・原沢左衛門(野田新陰流)
・西一頓高乗
・駒川太郎左衛門国吉(駒川改心流)
・狭川甲斐守助直(狭川派新陰流)


これらの人物の中には講談で有名ですが、武術史料で名前が見られない人物や、上泉の弟子ではない人物などもみられます。以下、一人づつ見ていきたいと思います。

上泉常陸介
上泉信綱の息子、常陸介は小笠原流(上泉流)軍法の伝承者として有名です。
弟子で彦根藩に仕えた岡本半介は有名。常陸介は新陰流を伝承していたとされていますが、実態はよくわかりません。大事典の系図で次代となっている上泉権右衛門は尾張藩に仕え、子孫は現存しているようです。権右衛門が新陰流を伝承していたのは間違いなく、尾張柳生家の子弟へ上泉伝の新陰流を指導していた事が尾張柳生家の伝書「討太刀目録」(柳生茂左衛門利方著、貞享二年1685)に書かれています。
なお、上泉権右衛門は居合の名人長野無楽斎の弟子でした。権右衛門の居合、夢想流は尾張藩の居合の主流の一つとなっています。また、黒田鉄山師範で有名な民弥流も上泉権右衛門の系統とされています。

・上泉主水正憲元
大事典では会津一刀流を名乗ったとされています。残念ながら詳細不明です。

・三浦将監
この人物は残念ながら詳細不明でした。大内氏実録(近藤清石)や慶元記(北条氏長)に名前が見えますが、新陰流との関係はよくわかりませんでした。どこかに記載があると思うので調べる必要があります。

・町田兵庫
町田兵庫は甲陽軍鑑に内藤修理正の衆として上泉伊勢守とともに名前があります。上州治乱記では内藤の衆は簑輪の牢人で武勇のものを集めたとあります。師弟関係はわかりませんが、簑輪の武士なら新陰流を学んでいてもおかしくなさそうです。出典については今後の調査課題です。

・疋田豊五郎
・神後伊豆守
上記二名は記録が多いため信綱の弟子で問題無いと思われます。疋田陰流、神後流とありますが疋田豊五郎は疋田陰流を名乗っておらず、神後についても末流は神影流を名乗っています。

・土屋将監
大事典では上泉信綱と神後伊豆守の弟子となっていますが、土屋の孫弟子渡辺七右衛門(和泉)の伝書では柳生宗厳の弟子としています。流派名も心陰流の他に柳生流、心陰柳生流と名乗っており、目録にも西江水など柳生の影響が濃いので、柳生宗厳の弟子で間違いないと思われます。


・柳生宗厳
・宝蔵院胤栄
・松田織部之助
上記の三名に関しては記録も多く上泉信綱の弟子であることを疑う必要も無いのでここでは省略します。柳生と宝蔵院宛の印可状は現存しているようです。

・羽賀井浅右衛門一心斎
・磯畑伴蔵
上記二名は明治期の講談でかなり多く名前を見かけます。おそらく元ネタがどこかにあると思いますが、武芸小伝等にも名前が無く、出典がよくわかりませんでした。今後の調査が必要です。

・丸目蔵人
いうまでも無くタイ捨流の開祖です。子孫の丸目家に今も上泉信綱からの免状が残ります。

・奥山休賀斎
寛永重修諸家譜に上泉の弟子との記述あります。上泉信綱の弟子であった可能性は高いと思われます。
ところで、直心影流では小笠原玄信が奥山の弟子とされていますが、これは山田一風斎かその息子長沼国郷の創作の可能性大です。
小笠原玄信から分かれた諸流派の伝系を比較してみると、実は小笠原が奥山の弟子となっているのは直心影流のみです。直心影流の伝書や系図が現在知られているものになるのは長沼国郷以降であり、それらを確立したのも国郷とおもわれます。(参考:軽米克尊「直心影流の研究」国書刊行会2020)
また、直心流から分かれた神陰流(幕臣今堀家)にも同様の系図がありますが、江戸後期の伝書しか見たことが無く、確認できていません。これは直心影流の影響の可能性があるのではないかと思います。

・坂田治太夫
水戸藩の新陰流二代目です。この人物も詳細不明ですが甲州の人のようです。水戸藩の新陰流は幕末に伊藤派一刀流や真陰流(疋田豊五郎系)と合併して水府流となります。

・鈴木兵庫助(伊賀守)意伯
大事典では鈴木兵庫助を意伯としているようです。多くの場合神後伊豆守と同一視されています。実際のところは不明ですが、鈴木兵庫助の直筆伝書や孫弟子の伝書が実在しており、鈴木は紀州之住となっています。

・那河弥左衛門
那河弥左衛門は「武芸小伝」に記載があります。
那河弥左衛門
刀槍の術を上泉伊勢守に習、妙を修め悟る。機内、中国にして刀術に於いて名を顕す
とありますが、後の流派の記録は残念ながら見つけていません。武芸小伝の出版頃(18世紀初頭)は知られていた人物なのかもしれません。

・野中新蔵成常
神新影一円流の開祖です。
多くの場合上泉信綱の直弟子とされていますが、子孫の野中家の記録によれば長岡藩主牧野氏のご落胤とされています。(実は野中新蔵は元の名を牧野新蔵、回国修行中に惣社の野中家に婿入りして野中を名乗ります)
新蔵は慶安3年(1650)に生まれているため、上泉の弟子直系ではありません。神陰流を学んだとされていますが、系統については不明です。二代目野中円学は江戸に出て柳生家に入門して修行したと伝わっています。この野中円学が神道無念流開祖福井兵右衛門の師であるようです。出典:植田俊夫「栃木県剣道史」

・高島太郎左衛門長正
この系統の新陰流は仙台藩に伝わっていました。
その伝書を見ると、上泉武蔵守と高島太郎左衛門の間に山岡五郎入道が入っています。ですので、高島太郎左衛門ではなく、山岡五郎入道が上泉の弟子でしょう。
ただし、これにも一つ問題があり、この系統の新陰流の形はあきらかに疋田豊五郎系の形となっています。疋田豊五郎の新陰流は疋田によって編纂され名称等が変えられているので、山岡五郎入道は上泉信綱の弟子ではなく、疋田豊五郎の弟子だと思われます。あるいは豊五郎その人かもしれません。(山岡五郎と豊五郎、ちょっと似てますし)

・原沢左衛門(野田新陰流)
群馬県内の旧家にある新陰流伝書の伝系上に上泉の弟子として原沢の名前があります。なおその伝書には野田新陰流の名は無いため、この流派名の出典は不明です。出典:諸田政治「上毛剣術史 中」煥乎堂1991

・西一頓
伝承地は不明ですが、武徳会が収集した史料の中に西一頓の伝書があります。また、九州内のある系統の新抜流伝書で西一頓の伝書を引用している系統があるため、西は九州の人だったのかもしれません。

・駒川太郎左衛門
黒田鉄山先生で有名な富山藩独自の剣術、駒川改心流の開祖です。流派の伝承では甲州の人で上泉の弟子と伝わりますが、詳細不明です。

・狭川甲斐守助直
大和志料上巻に永禄二年に狭川村の狭川甲斐守とあります。年代から甲斐守は上泉信綱の弟子であった可能性はあります。また仙台藩に仕えた子孫による家譜では、狭川甲斐守助貞は上泉伊勢守の弟子、孫の代で柳生の門弟となったとしています。(伊達治家記録 7 )
なお、甲斐守は助貞であり助直ではありません。助直は甲斐守助貞のひ孫にあたり、仙台藩の初代になります。

まとめ

以下の四名に関しては弟子である根拠が見つからないので保留とするべきでしょう。
・三浦将監
・町田兵庫
・羽賀井浅右衛門一心斎(羽賀井流)
・(?)磯端伴蔵

以下の二名に関しては信綱弟子では無いので系図に載せるのは不適切。
・土屋将監(心陰流)
・高島太郎左衛門長正(羽生主水)

上記の検討結果から、大事典の系図を修正すると以下のようになります。

上泉信綱
├上泉常陸介秀胤(上泉流軍法)
├上泉主水正憲元(考綱)(会津一刀流)
├疋田豊五郎景兼
├神後伊豆守宗治
├柳生宗厳石舟斎(永禄八年許)
│ └土屋将監(心陰流)
├宝蔵院胤栄(宝蔵院流槍術。)
├松田織部之助清栄
├丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)
├奥山休賀斎公重
├坂田治太夫安季
├鈴木兵庫助(伊賀守)意伯
├那河弥左衛門
├(何代か不詳)
│ └野中新蔵成常(新神影一円流)
├山岡五郎入道(疋田豊五郎のことか?)
│ └高島太郎左衛門長正(羽生主水)
├原沢左衛門
├西一頓高乗
├駒川太郎左衛門国吉(駒川改心流)
└狭川甲斐守助貞



(要検証の人物)
三浦将監
町田兵庫
羽賀井浅右衛門一心斎(羽賀井流)
(?)磯端伴蔵

2023年4月12日水曜日

続・柳生新陰流兵法 修猷館WEBサイトの件

 注:4/6にWEBサイトのいくつかのページが更新されているのに気が付き、内容を読んでおりました。その後も文章の改定があるようなので、最終的に4/10段階の記述に対して以下の文章は書かせていただいております。

こちらのページで新たな記述が加わっておりました。

4月10日現在、当方の記事へのリンクも直接の名指しも見当たらないことから、法的処置等の警告文以外は不特定多数宛であると思いますので、こちらもブログで主張させていただきます。

前回の記事に対する直接の反論や指摘は無い(少ない?)ようなので、追加部分について下記の三点のみの記述になります。


  1. 修猷館WEBサイトで新たに記載された、流派の体系等について考え方
  2. 正統性についての考えおよび誹謗中傷を繰り返しているという主張について
  3. 新陰流と新影流について



1.修猷館WEBサイトで新たに記載された、流派の体系等について考え方

こちらの文章で当初の有地・三宅の古文書と修猷館柳生新陰流の体系等の違いに関する疑問等はほぼ解消いたしました。つまり、有地・三宅の松右衛門の古伝の体系と、それ以降の代々の師範の研鑽によって尾張柳生などの影響もありWEBサイトで掲示されていた体系になった、という事と理解いたしました。

前回の記事で書いたように、当方の考え方としては

・流派の体系は変化するもの。

・流派の体系の変化したとして、修行者や師範の正統性へは関係しない。

と考えています。


ある流派の体系が江戸時代と違っていたとして、代々の師弟関係が捏造でなく、代々伝承されてきたとすればそれは正統な流派でしょう。

ですから、修猷館新陰流が代々伝承されてきているとのことであれば、江戸時代や戦国時代と体系が違っていても、正統であると考えます。

昨今は流派の変化を否定する、特に明治維新以降の変化は否定し開祖の頃に戻ることを理想とする古伝原理主義を見かけます。ですが修猷館様は変化も伝統を重視されているので、それらとは違うことは理解しております。

ですので、前回の記事で引用した修猷館さまのWEBサイトの以下の文章、

「伝統芸能につきましては、その時代に生きた訳ではありませんから、流祖の頃と寸分も技が変わっていないとは全く思いませんし、変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるものです。ただ、どの会派であれ、印可の有無に関わらず、流祖伝来の流儀を誤伝が出来るだけ少ない状態で、次の世代に繋げていけるよう、そうありたいと努力されているものですから、その点を理解して頂けたらと思います。」(引用:柳生家目録

この部分に私も完全に同意いたします。また、最初のWEBサイトで書かれていた、

「※尚、当会は、黒田藩新陰流師範家(有地家・三宅家)が歴代発行してきた正伝の伝書巻物内容に準じ、古式の新陰流を墨守しております。」(※現在は削除)

という文章については取り下げられたのは、おそらく古伝原理主義者や、多くの柳生系新陰流の研究者からの批判や誤解、懐疑の目を事前に防ぐためと理解しております。

今回私が文献調査の過程で感じた疑問程度のことは、おそらく柳生松右衛門系の史料を調査すれば誰でも思う程度の事です。実際、新陰流を調査されている方はかなりいらっしゃるので、遠からず松右衛門系のみならず、各派柳生流の古文書や流儀の研究結果は出てくるのではないかと思います。

その際、私と同じような疑問をいだく方は多いと思いますので、事前に説明されるのは賢明な事と思います。もし、私が記事を書く前にこちらの文章を見ていれば特に疑問も抱かなかったのでは、と感じております。


2.正統性についての考えおよび誹謗中傷を繰り返しているという主張について

「誤った情報を故意にTwitterなどで流して、誹謗中傷に邁進している会派があったり、」(引用:ご挨拶

上記のように書かれていますが、これは当方のブログ記事等と受け取らせていただきますが、非常に心外です。(ただ、最初に書いたとおり、この部分は当方への訴えではなく、WEBサイト閲覧者あてに書かれているのだと認識しております)

公式サイトで公開されている記述に対して疑問を持ち、調べる程度の事しかしておりません。実際、WEBサイトの記述が変わったので、最初の記事については適当ではなくなったため。すでに取り下げております。


3.新陰流と新影流について

こちらもすでに取り下げた記事の内容になりますが、修猷館WEBサイトの記述はやや焦点がずれた反論になっておりますので、少し説明と意見を書かせていただきます。

ご挨拶」のページの記載は要約すると、

  • 柳生松右衛門が伝授された免状は「新陰流」表記なので修猷館は「新陰流」表記を使っている。
  • 無免許で活動している肥後新陰流の方が「陰」と「影」の字をもって正統性が無い、伝統に反すると心無い誹謗中傷を繰り返している
  • 新當流・神刀流・神道流などからわかるとおり、さまざまな字を使う歴史や伝統がある。上泉の印可にも影や陰がある。
  • 字の違いを根拠に、他の会派の伝統愛や正統性を安易に否定するような事は許されない。

というような内容です。

さきほど記載したように、当初の記事(取り下げ済)では旧ページに

「※尚、当会は、黒田藩新陰流師範家(有地家・三宅家)が歴代発行してきた正伝の伝書巻物内容に準じ、古式の新陰流を墨守しております。」

と書かれていたために有地や三宅の伝書と比較検証したものです。

実際、私が見た範囲(目録等四十巻程度、冊子の伝書七冊程度)の柳生松右衛門系シンカゲ流では、九割以上は「影」の字を使っており、特に目録や免状では全て影の字を使っております。

また、現在故蒲池師範の後を継がれた方々も影の字を使われています。そうすると黒田藩や有地系シンカゲ流では原則的に書面上は影の字が使われていたと解するのが妥当と考えます。

ただ、上記の記述はあくまで、修猷館様の

「※尚、当会は、黒田藩新陰流師範家(有地家・三宅家)が歴代発行してきた正伝の伝書巻物内容に準じ、古式の新陰流を墨守しております。」

に基づいた検証です。「柳生家目録」のページで書かれている、

「伝統芸能につきましては、その時代に生きた訳ではありませんから、流祖の頃と寸分も技が変わっていないとは全く思いませんし、変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるものです。」

という言葉と、「ご挨拶」のページにある

「柳生家信の印可状に記されている『新陰流兵法』という伝統的な呼称を古くから重んじており、先代から受け継いだ流儀名」

というお言葉で、どこかの時点で文章上の表記を石舟斎の時点の「新陰流」に復古変更されたのだと理解できました。

上記のように、修猷館さまがどこかの時点で新陰流に復古変更されたという事と、私が主張している有地・三宅の両家で原則的に影の字が使われていたという文献上の事実は矛盾しませんし。また、これを誹謗中傷であると主張される事は全く理解できません。



2023年3月30日木曜日

修猷館WEBサイトの新記述について および前回の記事の取り下げ理由

記事引き下げについて

現在、修猷館のWEBサイトでは以下のような記載があります。

以下修猷館WEBサイトより引用

※尚、最近、当会に対して、無免許で活動されている肥後新陰流の関係者で印可を許されていないにも関わらず、ホームページや伝書の一部分を見て、当会を一方的に、正統性がないと誹謗中傷しておられる方が出てきておりますので、本意ではありませんが、門下生を守る為にも、この場を借りて、ホームページを通じてご忠告と警告を致します。
 伝統芸能につきましては、その時代に生きた訳ではありませんから、流祖の頃と寸分も技が変わっていないとは全く思いませんし、変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるものです。ただ、どの会派であれ、印可の有無に関わらず、流祖伝来の流儀を誤伝が出来るだけ少ない状態で、次の世代に繋げていけるよう、そうありたいと努力されているものですから、その点を理解して頂けたらと思います。(引用元:柳生家目録
引用終わり


まず最初に記事を引き下げた理由を書かせていただきます。
2月以前の修猷館WEBサイトでは、

※尚、当会は、黒田藩新陰流師範家(有地家・三宅家)が歴代発行してきた正伝の伝書巻物内容に準じ、古式の新陰流を墨守しております

と記載されておられたので、実際に比較してみて検討したものです。3月28日現在、上記の記述はWEBサイトから削除されているようです。当方としては、対象としていた記述が無くなった現状、記事をそのまま残すのは不当であると考え取り下げました。

流派についての考えですが私も流派というものは変化して当然と考えております。流派が変化していることと、流派や会派の正統性は別の問題とも考えています。個人的にはその時代その時代による変化の過程を調べるのも自身の流派の調査上重要と考えており、他派の新陰流の古文献を収集・調査しているのもその調査の一環です。

正統性と誹謗について

下修猷館WEBサイトより引用
 先代はホームページに記載しております通り、黒田藩伝の皆伝者となった後、修業のうえ、関連性のある尾張柳生の皆伝印可も頂いておりましたが、古武道家であれば、関連する他の系統からも古伝を真摯に学ぶ事は当然であり、学んだ経歴を持って、黒田藩伝として正統性がないかの様な誹謗中傷はやめた方が良いと思います。会派により伝わった口伝や技法、教授方法はそもそも違うのですから、自分が学びたい、正しいと思う伝の会派で学び、その伝を伝承されていかれたら良いだけの話だと思います。誹謗中傷は、負の連鎖しか生みませんし、生産性は全くありません。(引用元:柳生家目録
引用終わり

⇒誹謗中傷と受け取られたのは正直心外です。ご自身で書かれているとおり

変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるもの」(引用元:柳生家目録

ですので、変化があることがイコール正統性が無いとはなりません。ご自身で書かれているとおり「皆伝」なり「皆伝印可」を得るなど、師より認められる事が正統である証拠と思います。(たとえ江戸時代と体系や技が変わっていても、代々師より伝わったものを伝承されていればその流派、師弟関係は正統でしょう)

 もし、「江戸時代の体系と違う」という理由で自身の学んだ流派の正統性を疑うのでしたら、それは自身の流派の先師達の工夫を否定する事になります。例えば、肥後新陰流でしたら江戸時代のどこかの段階で三学より入門者に教えるようになりましたし、記録を見るとほかにも新たな伝書を作る、教授方法の工夫をおこなう、五本の技を取りまとめる、明治以降は四割竹刀と防具の採用する等々のさまざまな工夫が何代にも渡ってなされています。長く続く流派とはそのようなものと思います。これを「開祖の時代と違う、正統ではない」と正統性を否定する事は、流派を学んだ人間としてやってはいけないと考えております。



誹謗中傷について

以下修猷館WEBサイトより引用
 誹謗中傷者は、すでに特定しております。不必要な誹謗中傷は、自らが被疑者となり逮捕されるばかりか、大切なご家族、自分の大切にされている師匠、学ばれている会派の皆様にも大きな影響を与えて迷惑がかかります。また、肥後新陰流で師事する師匠の品位、会派や門下生の品位を落とすことにも繋がります。(引用元:柳生家目録

引用終わり

⇒不思議なのですが、上記のように書かれていますが、肥後新陰流の技に対して
1.「長短と徹底という技を混在して1本に改変している会派
2.「続け使いにも関わらず投剣を使わない会派も一部見受けられるが、元来、猿飛目録6本は、最後に投剣で使う打太刀に対して、折敷ながら刀を打ち落す使い方が本当の古伝である。 絵目録にあるように、これ以外の使い方は本来は無い。
3.「肥後新陰流の伝承の歴史について、相伝した関係者らから直接聞いた話によれば、伝位制度が崩壊して、続け使いの猿飛を復元した過程での誤伝である事が判明している。
(上記三点とも、疋田新陰流兵法 - 黒田藩傳 柳生新陰流兵法 修猷館より引用)


とWEBサイト上で書かれております。上記の肥後新陰流への批判(?)は名誉棄損や中傷にはならないとお考えでしょうか?

当方としては根拠があるようでしたら批判は自由と考えているので、ぜひ上記四点については根拠も含めて発表していただければ、と思います。「相伝家」「相伝した関係者ら」の方々のお名前やいつ頃習った、聞き取った話なのかも教えていただければ、直接その方々に事情や考えを確認しようと思います。


免許や印可についての記述

また、「柳生家目録」のページの最初に

尚、最近、当会に対して、無免許で活動されている肥後新陰流の関係者で印可を許されていないにも関わらず、ホームページや伝書の一部分を見て、当会を一方的に、正統性がないと

と免許や印可について言及されており、同じ文章の末尾では

ただ、どの会派であれ、印可の有無に関わらず、流祖伝来の流儀を誤伝が出来るだけ少ない状態で、次の世代に繋げていけるよう、そうありたいと努力されているものですから、その点を理解して頂けたらと思います。


とおっしゃっているのですが、これはどういうことでしょうか?少々矛盾が感じられます。

1. 免許が無ければ活動してはダメで、印可がなければ批評等は許されない。

2. 印可の有無に関わらず伝承している人を理解してください。

 という事であると読みました。免許無しの活動はダメなのか良いのかどちらでしょうか?


 肥後藩新陰流の伝統的な印可を持たず批判や検証しているのは修猷館WEBサイトも私の記事も同じでして、この文章はどう受け取れば良いか迷っております。

(なお最初に書いた通り、修猷館の正統性については一切言及しておりません。ご自身で「変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるもの」と書かれているとおり、流派は変化するものですから、正統性と流派や体系の変化は関係ないと考えます。)

2月時点と3月時点での疋田新陰流に関する記述の差異について


 最後に確認事項として、修猷館WEBサイトにおける、2月時点と3月29日現在の疋田家目録の形や伝授の順序、内容が異なっている理由はなんでしょうか?以下の表は比較です。





※1~※4について疑問があります。

※1 外物謀略之巻
 2月時点での疋田新陰流兵法目録(以下2月サイト)では、外之物謀略之巻二十三箇条として最後の部分に含まれています。3月時点では外物謀略之目録として一番最初に来ています。

※2 新陰流天狗書秘伝之巻
 2月サイトでは中極意天狗書と上極意天狗書の二段階に分けられていましたが、この区分が無くなって一括になっています。

※3 灌頂極意と紅葉観念
 2月サイトでは紅葉観念が先、灌頂極意が後ですが、3月サイトでは逆です。

※4 八種之目付並先持後拍子
 2月サイトでは外物と同じく最後になっていましたが、3月サイトでは位詰と天狗書の間となっています。

 私見ですが、現在の目録順は肥後新陰流東京稽古会が令和3年2月に作成して発表した「肥後藩新陰流伝書(一)」の肥後藩新陰流の伝授体系に準じているように思います。(表の左端)

 この順序は、肥後藩の伝授順をベースにしているため、他系統で伝授されていたものと順序が違います。肥後藩ではおそらく肥後藩独自の理由により外物謀略から伝授されていましたが、他藩の系統では多くの場合、天狗書等よりあとになっています。また、灌頂極意と紅葉観念についても系統によって位置づけが違います。2月サイトでの順序は肥後藩とは違う独自のものですが、なぜか3月時点のものの順序は肥後藩伝の順序となっています。

 修猷館で教えられている疋田系新陰流は柳生家信が戦国時代に学んだものの系統と主張されていると思っておりましたが、肥後新陰流をベースに体系を改良されたのでしょうか??


画像の出典元の未記載

 修猷館さまのWEBサイトで使用されている画像のいくつか(例:必勝~八重垣や添截乱截などの画像は奈良女子大大学情報センターで画像が公開されている宝山寺所蔵のものですが、同WEBサイトでは無断転載禁止と注記されています)は各地の博物館等所蔵の伝書ですが、画像の使用許可は取られているのでしょうか?使用許可を取っていても出典先を記載するのが決まりと思います。画像には出典は記載されていないようにお見受けします。お忘れになられているのでしたら早めに記載された方がよろしいと老婆心ながら感じております。無断転載や無許可利用を疑われます。



追加疑問事項

追記1:「念流兵法」

 以下修猷館WEBサイトより引用
 最近、疋田豊五郎は念流の秘伝技法を伝授していなかった、弟子が勝手に編み出した物であるとの根拠なき主張があるが、これは間違いである。これを裏付ける様に、熊本藩新陰流には八組と呼ばれる念流の小太刀術が現在しており、尾張柳生春風館の赤羽根龍夫氏の著書『新陰流疋田伝の研究』にも熊本藩新陰流師範家であった林家の伝書の一部が紹介されている。(引用:念流兵法

引用終わり


 上記の発言が、以前の記事の念流兵法に関する批判に対する返答と考えて記述します。

疋田豊五郎は念流の秘伝技法を伝授していなかった、弟子が勝手に編み出した物であるとの根拠なき主張があるが」(引用:念流兵法

 前回の記事ではこのようなことは書いておりません。誤解されたようなので、もう一度わかりやすく解説いたします。疋田豊五郎の弟子は多数いますが、念流由来と思われる体系を伝えた事が文献上わかっているのは以下の四名です。

香取兵左衛門・上野左右馬佐・猪多伊折佐・坂井半助

 資料を見ると、念流の伝系を伝えているのは二名、残り二名は伝系や由来について何も残していません。また、共通点は見られますが、全員目録内容が違っています。また、流派の体系のどの部分に念流由来の部分を取り入れているかも違います。

 ここからわかることは、疋田豊五郎が念流の兵法を伝えていたのは間違いありませんが、その内容については確定できないということです。

 そして、林家に伝わった小太刀虎乱之巻は上記四名のうちの一人の巻と全く同じです。林家の「先師伝来古書」は疋田豊五郎の名はありますが、伝授対象や年号が書かれていません。私はこれは疋田豊五郎のものではなく、その弟子か孫弟子などによって書かれたものと考えています。(赤羽根先生の著書でも疋田豊五郎の直筆書とは書かれていません)

 つまり、

1、疋田豊五郎は念流由来の兵法も教えていた。

2、疋田豊五郎による上記流派の伝書は見つかっていない。

3,念流由来の技を伝えた四名の弟子で共通点はあるが、目録がまったく違う。

ということです。

 現在貴WEBサイトで公開されている絵目録は林家のものと一致しています(=上記四系統のうち肥後藩ではないものと同じ)が、貴会のWEBページの解説を読むと「疋田豊五郎と柳生宗厳の高弟であった柳生家信は」とあるので、この伝書はその系統でしょうか??

 歴史的経緯がお分かりならお教えください。(不明であるならその旨教えていただけると。)秘伝であるというようでしたら、結構です。林家のものと同じ事を指摘するに留めますので、今後の御研究等にお役立てください。




追記2:「柳生家目録」


 以下修猷館WEBサイトより引用
印可之太刀の八箇必勝、丸橋(転)、無刀取にあっては、江戸柳生、尾張柳生にあっても、柳生家の慣習で目録にあえて詳細を記載しない場合が多いものです。八箇必勝(是極一刀)は、廿七箇条截相の急之太刀と類似技法で同一視されるものであり、口伝で伝わっているものです。江戸柳生で印可の太刀と呼ばれていたのはその為です。ですから廿七箇条截相が伝わっているということは、必然的に八箇必勝(是極一刀)も存在するのです。(引用:柳生家目録
引用終わり


 八箇必勝に関しては、「柳生家の慣習で目録にあえて詳細を記載しない場合が多い」ではなく、江戸柳生では存在していないというのが尾張柳生での伝統的な解釈ではないでしょうか?また柳生厳長「正伝新陰流」では、天狗抄と奥義之太刀を正しく相伝したのは尾張柳生のみで、柳生宗矩は二十七箇条も奥義の太刀も誤伝していると批判しています。(同書p284)


 「正伝新陰流」にあるとおり、江戸柳生と尾張柳生では二十七箇条の破の太刀の構成が違います。それに江戸柳生で「印可の太刀」と言っている例は今まで見たことがありませんが、どの文献に記載されているのでしょうか?

 「八箇必勝(是極一刀)は、廿七箇条截相の急之太刀と類似技法で同一視されるもの」と書かれていますが、同一技法があることと、名義が別になっていることは分けて考えるべきです。私は目録表記上の話をしているのであって、技法については書いておりません。(当然、尾張柳生で急の太刀と八箇必勝が同一視されていることは有名な話ですので存じております)

柳生系シンカゲ流各派の体系について(1)

 現在伝承されている柳生系新陰流は尾張藩柳生家に伝わったものが主となっています。

 柳生系統とされる流派が複数伝承されています。小城藩の新陰流、黒田藩の柳生新影流(柳生新陰流)、徳島の柳生神影流、大和柳生新陰流、柳生心眼流などです。

・小城藩の新陰流

 西小路の鍋島家が伝承した新陰流です。近代まで鍋島家で伝承されていましたが、戦前に鍋島家での伝承は途絶えたようです。戦前に学んだ方が晩年に思い出して残した三学等の一部の形が現在まで残っています。

・黒田藩の柳生新影流

 現在、黒田藩伝として故・蒲池師範が福岡で広く伝えた柳生新影流が複数会派伝承されています。伝系としては後程検討する、柳生宗厳の初期の高弟、柳生松右衛門の新影流になります。ですが公開されている流派の体系、技法や名称が有地家や三宅家の古文書類のものとは大きく異なっています。

・徳島の柳生神影流

 徳島の久武館に徳島藩新陰流由来の柳生神影流が現存しています。維新後に武徳会で活躍した久保利雄が伝承した流派です。由来は徳島へ伝わった江戸柳生の新陰流ですが、江戸時代から発展し独自の体系となっているようです。

・大和柳生新陰流

 柳生藩由来という大和柳生新陰流が現在関西や外国で伝承されています。ですが、これも公開されている範囲を見る限り幕末明治期の柳生藩の新陰流とは全く違った技法や体系となっているようです。

・柳生心眼流

 仙台藩の柳生心眼流も江戸柳生を祖の一つしていますが、剣術は独自のもののようです。

 上記のように見ていくと、過去の技法を検証の際に参考にすることを考えると、尾張柳生系の会派と小城の新陰流以外は文献での裏付けが不足している、または独自化しているために難しいと考えます。そうすると、どのように変化したか検証する必要があり、わかったとしても非常に手間がかかります。技法の検証の際はこれらの現存技法はとりあえず除いて検証を始めるのが手早いと考えます。

ですが今回は文献上の比較のみとするので、上記の件はあまり関係ありません。

文献が残る柳生系シンカゲ流各派について

 現在でも多数の文献が残っている柳生系新陰流は、
  1. 江戸柳生家系の新陰流各派
  2. 尾張柳生家の新陰流
  3. 有地家の新影流(※1)
  4. 肥後藩の當流神影流
  5. 甲乙流
などが挙げられます。(他にもいくつかありますが、それぞれの流派についての文献が少ないので今回は取り上げません)
 上記の流派について、目録等からわかる体系について比較してみたいと思います。

※1 柳生松右衛門系統のシンカゲ流では、ほとんどの場合「影」の字を使っています。これは中国地方に伝わった柳生松右衛門系でも同じだったようです。

それぞれの流派について

 尾張柳生や江戸柳生については説明不要と思います。

3.有地家の新影流は柳生宗厳の初期の高弟である柳生松右衛門の後を継いだ有地内蔵助の末裔が伝えた流派で、黒田藩に伝わったものです。柳生松右衛門とその末裔は毛利家に仕えましたが、有地内蔵助は黒田藩に移りました。のちに弟子の三宅家も新影流師範家として活躍します。また、柳生松右衛門が伝承していた新當流長太刀(俗にいう穴沢流薙刀)は有地家に二代伝わったあと同藩の美和家が師範となりました。熊本県立図書館富永家文庫にある明治末から大正頃と思われる有地道場師範の史料を見ると、明治初期にはまだかなりの門弟がいたようです。その後いつまで伝承されたか状況は不明です。

4.当流神影流は柳生宗厳の弟子岡本仁兵衛が伝えたシンカゲ流で、熊本藩校で学ばれていました。いつ肥後細川藩へ伝わったか不明ですが、岡本の孫弟子の時代にはすでに肥後細川藩で伝承されていたようです。明治期に剣道家として名前が残っている人物もおり、近代まで伝承されていました。この流派の記録で判明している免許皆伝者は第二次大戦後に亡くなっています。

5.甲乙流は柳生宗矩の門弟といわれている桑名藩主松平定綱が家臣山本助之進とともに創始した流派とされています。薩摩藩島津家に伝わった伝書が多数残っていたものです。その内容を見る限り、通説と違って江戸柳生の影響は見られず、むしろ柳生松右衛門や當流神影流と似ており、また尾張柳生の影響とみられる伝書も含まれています。


(以下次回)

参考文献

有地家新影流関係
熊本県立図書館富永家文書「新影流秘記」
同「新影流秘伝書」
同「新影流二十五条習」
筑波大学中央図書館渡辺一郎文庫「家法秘術」

當流神影流関係
熊本県立図書館富永家文書「神影流兵法覚目録」
同「神影流兵法目録」
同「神影流兵法目録之内貳拾壱箇條之理」

甲乙流関係
島津家文書 甲乙流関係伝書

尾張柳生家新陰流関係
渡辺忠敏「柳生流兵法口伝聞書」新陰流兵法転会,昭和49年
渡辺忠成・島正紀「新陰流兵法教範」新陰流兵法転会,平成11年
赤羽根龍夫「柳生新陰流を学ぶ」スキージャーナル,2007年

江戸柳生家新陰流関係
大野直之「太刀構之事 四」周南市立中央図書館徳山毛利家文書
内藤作兵衛「柳生新陰流剣術伝授書」山口県文書館三戸家 
田中甚兵衛「柳生家新陰流兵法目録」
柳生宗冬「新陰流兵法目録」
「新秘抄」武術叢書
小城新陰流関係資料

2023年2月27日月曜日

修猷館の新陰流について 燕飛の研究特別編

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3/28追記
修猷館の方がこちらの記事を読まれたようで、以前と記事の内容が変わっておりました。「黒田藩の有地家・三宅家が歴代発行してきた正伝の伝書巻物内容に準じている」や獅子奮迅等の主に批判対象としていた記載が無くなっており、また口伝で伝わっているというような事も追記されています。また、こちらの記事に対し
「当会を一方的に、正統性がないと誹謗中傷しておられる方」
として法的対処にも言及されています。
当初批判していた内容と、現在のWEBサイトの内容が変わっているようですので、どちらにしろこちらの記事は見当はずれの部分が出来てしまったと思います。
 また、元記事のリンクがすべて繋がらなくなっておりますので、引用要件も満たせていないため、記事は一時取り下げようとおもいます。


 

さらに新たに現在の肥後新陰流等について誤解と誤りの多い記載が追加されています。特に私の念流伝書に関する批判は完全に内容を勘違いされているようです。
「最近、疋田豊五郎は念流の秘伝技法を伝授していなかった、弟子が勝手に編み出した物であるとの根拠なき主張があるが、これは間違いである。これを裏付ける様に、熊本藩新陰流には八組と呼ばれる念流の小太刀術が現在しており、尾張柳生春風館の赤羽根龍夫氏の著書『新陰流疋田伝の研究』にも熊本藩新陰流師範家であった林家の伝書の一部が紹介されている。」念流兵法 

とありますが、こちらが以前の私の批判、
「同ページにある絵目録は、赤羽根龍夫「新陰流疋田伝の研究」に掲載されている、肥後藩林家に伝わった系統不明の伝書です。この伝書についてはある程度どの系統に伝わったものか推測できていますが、疋田豊五郎が伝授した形式ではなく、その弟子の時代に作られたものです。その系統は肥後藩のものではありません。」(当方の削除記事より)

を勘違いされているものと思われます。
疋田豊五郎が二刀等の念流の技法を伝承したのは間違いないのですが、念流に関しては伝書を伝授していなかったと思われ、系統によって伝書の内容が異なっています。少なくとも疋田の二刀は少なくとも二系統で伝承され、林家の伝書はそのうち一系統のものと全く同じです。もう一系統の二刀の伝書は林家の伝書と全く違います。という事です。なお林家の伝書は肥後藩のものではないと考えられます。

以前の記事に関しては現在のWEBサイトにあわせて修正して再度投稿しなおしたいと思います。 

当記事に対する記載は、
柳生家目録

疋田家目録 

上記のページにあります。


新当流は念網慈恩の一派である② 表は念流、七條之太刀からが新当流

  「新当流(神道流)は念阿弥慈恩の一派である①」では 伝書の文章から飯篠長威が中古之念流を学んだこと、初条七箇懸具足の前に念流を学んでいたという記述があった事を示しました。今回は新當流各派の体系の共通点や目録から、念流が含まれていること、七條之太刀からが新當流の太刀筋であること...