2023年3月30日木曜日

修猷館WEBサイトの新記述について および前回の記事の取り下げ理由

記事引き下げについて

現在、修猷館のWEBサイトでは以下のような記載があります。

以下修猷館WEBサイトより引用

※尚、最近、当会に対して、無免許で活動されている肥後新陰流の関係者で印可を許されていないにも関わらず、ホームページや伝書の一部分を見て、当会を一方的に、正統性がないと誹謗中傷しておられる方が出てきておりますので、本意ではありませんが、門下生を守る為にも、この場を借りて、ホームページを通じてご忠告と警告を致します。
 伝統芸能につきましては、その時代に生きた訳ではありませんから、流祖の頃と寸分も技が変わっていないとは全く思いませんし、変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるものです。ただ、どの会派であれ、印可の有無に関わらず、流祖伝来の流儀を誤伝が出来るだけ少ない状態で、次の世代に繋げていけるよう、そうありたいと努力されているものですから、その点を理解して頂けたらと思います。(引用元:柳生家目録
引用終わり


まず最初に記事を引き下げた理由を書かせていただきます。
2月以前の修猷館WEBサイトでは、

※尚、当会は、黒田藩新陰流師範家(有地家・三宅家)が歴代発行してきた正伝の伝書巻物内容に準じ、古式の新陰流を墨守しております

と記載されておられたので、実際に比較してみて検討したものです。3月28日現在、上記の記述はWEBサイトから削除されているようです。当方としては、対象としていた記述が無くなった現状、記事をそのまま残すのは不当であると考え取り下げました。

流派についての考えですが私も流派というものは変化して当然と考えております。流派が変化していることと、流派や会派の正統性は別の問題とも考えています。個人的にはその時代その時代による変化の過程を調べるのも自身の流派の調査上重要と考えており、他派の新陰流の古文献を収集・調査しているのもその調査の一環です。

正統性と誹謗について

下修猷館WEBサイトより引用
 先代はホームページに記載しております通り、黒田藩伝の皆伝者となった後、修業のうえ、関連性のある尾張柳生の皆伝印可も頂いておりましたが、古武道家であれば、関連する他の系統からも古伝を真摯に学ぶ事は当然であり、学んだ経歴を持って、黒田藩伝として正統性がないかの様な誹謗中傷はやめた方が良いと思います。会派により伝わった口伝や技法、教授方法はそもそも違うのですから、自分が学びたい、正しいと思う伝の会派で学び、その伝を伝承されていかれたら良いだけの話だと思います。誹謗中傷は、負の連鎖しか生みませんし、生産性は全くありません。(引用元:柳生家目録
引用終わり

⇒誹謗中傷と受け取られたのは正直心外です。ご自身で書かれているとおり

変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるもの」(引用元:柳生家目録

ですので、変化があることがイコール正統性が無いとはなりません。ご自身で書かれているとおり「皆伝」なり「皆伝印可」を得るなど、師より認められる事が正統である証拠と思います。(たとえ江戸時代と体系や技が変わっていても、代々師より伝わったものを伝承されていればその流派、師弟関係は正統でしょう)

 もし、「江戸時代の体系と違う」という理由で自身の学んだ流派の正統性を疑うのでしたら、それは自身の流派の先師達の工夫を否定する事になります。例えば、肥後新陰流でしたら江戸時代のどこかの段階で三学より入門者に教えるようになりましたし、記録を見るとほかにも新たな伝書を作る、教授方法の工夫をおこなう、五本の技を取りまとめる、明治以降は四割竹刀と防具の採用する等々のさまざまな工夫が何代にも渡ってなされています。長く続く流派とはそのようなものと思います。これを「開祖の時代と違う、正統ではない」と正統性を否定する事は、流派を学んだ人間としてやってはいけないと考えております。



誹謗中傷について

以下修猷館WEBサイトより引用
 誹謗中傷者は、すでに特定しております。不必要な誹謗中傷は、自らが被疑者となり逮捕されるばかりか、大切なご家族、自分の大切にされている師匠、学ばれている会派の皆様にも大きな影響を与えて迷惑がかかります。また、肥後新陰流で師事する師匠の品位、会派や門下生の品位を落とすことにも繋がります。(引用元:柳生家目録

引用終わり

⇒不思議なのですが、上記のように書かれていますが、肥後新陰流の技に対して
1.「長短と徹底という技を混在して1本に改変している会派
2.「続け使いにも関わらず投剣を使わない会派も一部見受けられるが、元来、猿飛目録6本は、最後に投剣で使う打太刀に対して、折敷ながら刀を打ち落す使い方が本当の古伝である。 絵目録にあるように、これ以外の使い方は本来は無い。
3.「肥後新陰流の伝承の歴史について、相伝した関係者らから直接聞いた話によれば、伝位制度が崩壊して、続け使いの猿飛を復元した過程での誤伝である事が判明している。
(上記三点とも、疋田新陰流兵法 - 黒田藩傳 柳生新陰流兵法 修猷館より引用)


とWEBサイト上で書かれております。上記の肥後新陰流への批判(?)は名誉棄損や中傷にはならないとお考えでしょうか?

当方としては根拠があるようでしたら批判は自由と考えているので、ぜひ上記四点については根拠も含めて発表していただければ、と思います。「相伝家」「相伝した関係者ら」の方々のお名前やいつ頃習った、聞き取った話なのかも教えていただければ、直接その方々に事情や考えを確認しようと思います。


免許や印可についての記述

また、「柳生家目録」のページの最初に

尚、最近、当会に対して、無免許で活動されている肥後新陰流の関係者で印可を許されていないにも関わらず、ホームページや伝書の一部分を見て、当会を一方的に、正統性がないと

と免許や印可について言及されており、同じ文章の末尾では

ただ、どの会派であれ、印可の有無に関わらず、流祖伝来の流儀を誤伝が出来るだけ少ない状態で、次の世代に繋げていけるよう、そうありたいと努力されているものですから、その点を理解して頂けたらと思います。


とおっしゃっているのですが、これはどういうことでしょうか?少々矛盾が感じられます。

1. 免許が無ければ活動してはダメで、印可がなければ批評等は許されない。

2. 印可の有無に関わらず伝承している人を理解してください。

 という事であると読みました。免許無しの活動はダメなのか良いのかどちらでしょうか?


 肥後藩新陰流の伝統的な印可を持たず批判や検証しているのは修猷館WEBサイトも私の記事も同じでして、この文章はどう受け取れば良いか迷っております。

(なお最初に書いた通り、修猷館の正統性については一切言及しておりません。ご自身で「変遷は少なからずどの流儀や会派であれあるもの」と書かれているとおり、流派は変化するものですから、正統性と流派や体系の変化は関係ないと考えます。)

2月時点と3月時点での疋田新陰流に関する記述の差異について


 最後に確認事項として、修猷館WEBサイトにおける、2月時点と3月29日現在の疋田家目録の形や伝授の順序、内容が異なっている理由はなんでしょうか?以下の表は比較です。





※1~※4について疑問があります。

※1 外物謀略之巻
 2月時点での疋田新陰流兵法目録(以下2月サイト)では、外之物謀略之巻二十三箇条として最後の部分に含まれています。3月時点では外物謀略之目録として一番最初に来ています。

※2 新陰流天狗書秘伝之巻
 2月サイトでは中極意天狗書と上極意天狗書の二段階に分けられていましたが、この区分が無くなって一括になっています。

※3 灌頂極意と紅葉観念
 2月サイトでは紅葉観念が先、灌頂極意が後ですが、3月サイトでは逆です。

※4 八種之目付並先持後拍子
 2月サイトでは外物と同じく最後になっていましたが、3月サイトでは位詰と天狗書の間となっています。

 私見ですが、現在の目録順は肥後新陰流東京稽古会が令和3年2月に作成して発表した「肥後藩新陰流伝書(一)」の肥後藩新陰流の伝授体系に準じているように思います。(表の左端)

 この順序は、肥後藩の伝授順をベースにしているため、他系統で伝授されていたものと順序が違います。肥後藩ではおそらく肥後藩独自の理由により外物謀略から伝授されていましたが、他藩の系統では多くの場合、天狗書等よりあとになっています。また、灌頂極意と紅葉観念についても系統によって位置づけが違います。2月サイトでの順序は肥後藩とは違う独自のものですが、なぜか3月時点のものの順序は肥後藩伝の順序となっています。

 修猷館で教えられている疋田系新陰流は柳生家信が戦国時代に学んだものの系統と主張されていると思っておりましたが、肥後新陰流をベースに体系を改良されたのでしょうか??


画像の出典元の未記載

 修猷館さまのWEBサイトで使用されている画像のいくつか(例:必勝~八重垣や添截乱截などの画像は奈良女子大大学情報センターで画像が公開されている宝山寺所蔵のものですが、同WEBサイトでは無断転載禁止と注記されています)は各地の博物館等所蔵の伝書ですが、画像の使用許可は取られているのでしょうか?使用許可を取っていても出典先を記載するのが決まりと思います。画像には出典は記載されていないようにお見受けします。お忘れになられているのでしたら早めに記載された方がよろしいと老婆心ながら感じております。無断転載や無許可利用を疑われます。



追加疑問事項

追記1:「念流兵法」

 以下修猷館WEBサイトより引用
 最近、疋田豊五郎は念流の秘伝技法を伝授していなかった、弟子が勝手に編み出した物であるとの根拠なき主張があるが、これは間違いである。これを裏付ける様に、熊本藩新陰流には八組と呼ばれる念流の小太刀術が現在しており、尾張柳生春風館の赤羽根龍夫氏の著書『新陰流疋田伝の研究』にも熊本藩新陰流師範家であった林家の伝書の一部が紹介されている。(引用:念流兵法

引用終わり


 上記の発言が、以前の記事の念流兵法に関する批判に対する返答と考えて記述します。

疋田豊五郎は念流の秘伝技法を伝授していなかった、弟子が勝手に編み出した物であるとの根拠なき主張があるが」(引用:念流兵法

 前回の記事ではこのようなことは書いておりません。誤解されたようなので、もう一度わかりやすく解説いたします。疋田豊五郎の弟子は多数いますが、念流由来と思われる体系を伝えた事が文献上わかっているのは以下の四名です。

香取兵左衛門・上野左右馬佐・猪多伊折佐・坂井半助

 資料を見ると、念流の伝系を伝えているのは二名、残り二名は伝系や由来について何も残していません。また、共通点は見られますが、全員目録内容が違っています。また、流派の体系のどの部分に念流由来の部分を取り入れているかも違います。

 ここからわかることは、疋田豊五郎が念流の兵法を伝えていたのは間違いありませんが、その内容については確定できないということです。

 そして、林家に伝わった小太刀虎乱之巻は上記四名のうちの一人の巻と全く同じです。林家の「先師伝来古書」は疋田豊五郎の名はありますが、伝授対象や年号が書かれていません。私はこれは疋田豊五郎のものではなく、その弟子か孫弟子などによって書かれたものと考えています。(赤羽根先生の著書でも疋田豊五郎の直筆書とは書かれていません)

 つまり、

1、疋田豊五郎は念流由来の兵法も教えていた。

2、疋田豊五郎による上記流派の伝書は見つかっていない。

3,念流由来の技を伝えた四名の弟子で共通点はあるが、目録がまったく違う。

ということです。

 現在貴WEBサイトで公開されている絵目録は林家のものと一致しています(=上記四系統のうち肥後藩ではないものと同じ)が、貴会のWEBページの解説を読むと「疋田豊五郎と柳生宗厳の高弟であった柳生家信は」とあるので、この伝書はその系統でしょうか??

 歴史的経緯がお分かりならお教えください。(不明であるならその旨教えていただけると。)秘伝であるというようでしたら、結構です。林家のものと同じ事を指摘するに留めますので、今後の御研究等にお役立てください。




追記2:「柳生家目録」


 以下修猷館WEBサイトより引用
印可之太刀の八箇必勝、丸橋(転)、無刀取にあっては、江戸柳生、尾張柳生にあっても、柳生家の慣習で目録にあえて詳細を記載しない場合が多いものです。八箇必勝(是極一刀)は、廿七箇条截相の急之太刀と類似技法で同一視されるものであり、口伝で伝わっているものです。江戸柳生で印可の太刀と呼ばれていたのはその為です。ですから廿七箇条截相が伝わっているということは、必然的に八箇必勝(是極一刀)も存在するのです。(引用:柳生家目録
引用終わり


 八箇必勝に関しては、「柳生家の慣習で目録にあえて詳細を記載しない場合が多い」ではなく、江戸柳生では存在していないというのが尾張柳生での伝統的な解釈ではないでしょうか?また柳生厳長「正伝新陰流」では、天狗抄と奥義之太刀を正しく相伝したのは尾張柳生のみで、柳生宗矩は二十七箇条も奥義の太刀も誤伝していると批判しています。(同書p284)


 「正伝新陰流」にあるとおり、江戸柳生と尾張柳生では二十七箇条の破の太刀の構成が違います。それに江戸柳生で「印可の太刀」と言っている例は今まで見たことがありませんが、どの文献に記載されているのでしょうか?

 「八箇必勝(是極一刀)は、廿七箇条截相の急之太刀と類似技法で同一視されるもの」と書かれていますが、同一技法があることと、名義が別になっていることは分けて考えるべきです。私は目録表記上の話をしているのであって、技法については書いておりません。(当然、尾張柳生で急の太刀と八箇必勝が同一視されていることは有名な話ですので存じております)

柳生系シンカゲ流各派の体系について(1)

 現在伝承されている柳生系新陰流は尾張藩柳生家に伝わったものが主となっています。

 柳生系統とされる流派が複数伝承されています。小城藩の新陰流、黒田藩の柳生新影流(柳生新陰流)、徳島の柳生神影流、大和柳生新陰流、柳生心眼流などです。

・小城藩の新陰流

 西小路の鍋島家が伝承した新陰流です。近代まで鍋島家で伝承されていましたが、戦前に鍋島家での伝承は途絶えたようです。戦前に学んだ方が晩年に思い出して残した三学等の一部の形が現在まで残っています。

・黒田藩の柳生新影流

 現在、黒田藩伝として故・蒲池師範が福岡で広く伝えた柳生新影流が複数会派伝承されています。伝系としては後程検討する、柳生宗厳の初期の高弟、柳生松右衛門の新影流になります。ですが公開されている流派の体系、技法や名称が有地家や三宅家の古文書類のものとは大きく異なっています。

・徳島の柳生神影流

 徳島の久武館に徳島藩新陰流由来の柳生神影流が現存しています。維新後に武徳会で活躍した久保利雄が伝承した流派です。由来は徳島へ伝わった江戸柳生の新陰流ですが、江戸時代から発展し独自の体系となっているようです。

・大和柳生新陰流

 柳生藩由来という大和柳生新陰流が現在関西や外国で伝承されています。ですが、これも公開されている範囲を見る限り幕末明治期の柳生藩の新陰流とは全く違った技法や体系となっているようです。

・柳生心眼流

 仙台藩の柳生心眼流も江戸柳生を祖の一つしていますが、剣術は独自のもののようです。

 上記のように見ていくと、過去の技法を検証の際に参考にすることを考えると、尾張柳生系の会派と小城の新陰流以外は文献での裏付けが不足している、または独自化しているために難しいと考えます。そうすると、どのように変化したか検証する必要があり、わかったとしても非常に手間がかかります。技法の検証の際はこれらの現存技法はとりあえず除いて検証を始めるのが手早いと考えます。

ですが今回は文献上の比較のみとするので、上記の件はあまり関係ありません。

文献が残る柳生系シンカゲ流各派について

 現在でも多数の文献が残っている柳生系新陰流は、
  1. 江戸柳生家系の新陰流各派
  2. 尾張柳生家の新陰流
  3. 有地家の新影流(※1)
  4. 肥後藩の當流神影流
  5. 甲乙流
などが挙げられます。(他にもいくつかありますが、それぞれの流派についての文献が少ないので今回は取り上げません)
 上記の流派について、目録等からわかる体系について比較してみたいと思います。

※1 柳生松右衛門系統のシンカゲ流では、ほとんどの場合「影」の字を使っています。これは中国地方に伝わった柳生松右衛門系でも同じだったようです。

それぞれの流派について

 尾張柳生や江戸柳生については説明不要と思います。

3.有地家の新影流は柳生宗厳の初期の高弟である柳生松右衛門の後を継いだ有地内蔵助の末裔が伝えた流派で、黒田藩に伝わったものです。柳生松右衛門とその末裔は毛利家に仕えましたが、有地内蔵助は黒田藩に移りました。のちに弟子の三宅家も新影流師範家として活躍します。また、柳生松右衛門が伝承していた新當流長太刀(俗にいう穴沢流薙刀)は有地家に二代伝わったあと同藩の美和家が師範となりました。熊本県立図書館富永家文庫にある明治末から大正頃と思われる有地道場師範の史料を見ると、明治初期にはまだかなりの門弟がいたようです。その後いつまで伝承されたか状況は不明です。

4.当流神影流は柳生宗厳の弟子岡本仁兵衛が伝えたシンカゲ流で、熊本藩校で学ばれていました。いつ肥後細川藩へ伝わったか不明ですが、岡本の孫弟子の時代にはすでに肥後細川藩で伝承されていたようです。明治期に剣道家として名前が残っている人物もおり、近代まで伝承されていました。この流派の記録で判明している免許皆伝者は第二次大戦後に亡くなっています。

5.甲乙流は柳生宗矩の門弟といわれている桑名藩主松平定綱が家臣山本助之進とともに創始した流派とされています。薩摩藩島津家に伝わった伝書が多数残っていたものです。その内容を見る限り、通説と違って江戸柳生の影響は見られず、むしろ柳生松右衛門や當流神影流と似ており、また尾張柳生の影響とみられる伝書も含まれています。


(以下次回)

参考文献

有地家新影流関係
熊本県立図書館富永家文書「新影流秘記」
同「新影流秘伝書」
同「新影流二十五条習」
筑波大学中央図書館渡辺一郎文庫「家法秘術」

當流神影流関係
熊本県立図書館富永家文書「神影流兵法覚目録」
同「神影流兵法目録」
同「神影流兵法目録之内貳拾壱箇條之理」

甲乙流関係
島津家文書 甲乙流関係伝書

尾張柳生家新陰流関係
渡辺忠敏「柳生流兵法口伝聞書」新陰流兵法転会,昭和49年
渡辺忠成・島正紀「新陰流兵法教範」新陰流兵法転会,平成11年
赤羽根龍夫「柳生新陰流を学ぶ」スキージャーナル,2007年

江戸柳生家新陰流関係
大野直之「太刀構之事 四」周南市立中央図書館徳山毛利家文書
内藤作兵衛「柳生新陰流剣術伝授書」山口県文書館三戸家 
田中甚兵衛「柳生家新陰流兵法目録」
柳生宗冬「新陰流兵法目録」
「新秘抄」武術叢書
小城新陰流関係資料

武芸流派大事典の新陰流系図についての検証

綿谷雪・山田忠史 編「増補大改訂 武芸流派大事典」は出版から数十年経た現在でも伝統武術について調べる場合の必須の資料です。時代を考えるとすさまじい仕事です。 ですが、昔から知られている通り、間違いが多い事でも知られますし、独自の記述についても出典が書かれていないので検討しようが無...