2026年1月23日金曜日

疋田新陰流の特徴

疋田豊五郎の新陰流(以下疋田新陰流と略します)を柳生流や他の系統の新陰流と比較すると

①上泉信綱の新陰流を大きく改変し、独自の剣術体系を確立している。
②独自の体系を確立したが、流祖を愛洲移香としている。また、流派名として新陰流の古表記である『新陰之流』を使用している。
②構え・太刀筋を陰・陽・光陰の三種に分けて体系立てた。
③流派の指導階梯として1.心身の基礎鍛錬、2.切り合いの原理、3.各種の切り合い、4.諸流派に勝つ切り合いの奥の手、5.合戦の手、と五階梯に整理した。
④勝ち方をパターン化して要点を整理した。
⑤五段之太刀分(切合)として②や④を踏まえて各種太刀の変化の大要を整理し記述として残している。
⑥豊五郎から学んだ直弟子たちは皆『新陰流(新陰之流)』と名乗り、さらに末流も新陰流の正統と考えている例が多い。

上記の6点が思い浮かびます。
豊五郎は壮年期(天正年間40歳頃)にはおおよそ上記の流派体系に整理を終えていたと思いますが、資料から晩年(慶長頃)まで流派の体系の改善や工夫を続けていたようです。

この他、豊五郎自身の事績をみると各種武器の技法を教えていた様子がうかがえます。
新陰流兵法の体系から抜け落ちた部分で、自身が学んでいた武芸を別伝として教えていたようです。確実なのは赤松三首座系の念流兵法(小太刀、二刀、薙刀、鎗)および新當流の薙刀、十文字槍および自身の工夫の可能性がある鍵槍です。なお鎗術(素槍)に関しては新當流の槍術を元に自身の工夫を加え、新陰之流槍目録として体系を整理し剣術とは別に教えていました。
上記にあるように豊五郎が各種武芸を教えていたため、後世の弟子たちは豊五郎から学んだ念流や新当流を自身の新陰流の体系に加えている例があります。なので、疋田新陰流各派を見ると、系統によって太刀以外の小太刀や二刀、鎗・薙刀なども疋田新陰流に含まれる場合も見られます。しかし、豊五郎の『新陰之流』は太刀(兵法)と槍の二種類のみだったようです。

・疋田新陰流に関する誤解
書籍、WEB上を含めて未だによく見られる誤解は、

①疋田豊五郎が疋田陰流を名乗った。(もしくは弟子が疋田陰流を名乗った)
②豊五郎は上泉信綱初期の新陰流を伝えている。

ですが、両方とも誤りでしょう。

豊五郎は愛洲陰之流の流れを重視しつつ、自身の工夫を加え(これは豊五郎自身が伝書で数人の師から学び、自身の工夫したと述べています)、兵法指導の体系を確立したと思われます。
疋田豊五郎は記録に残っている安土桃山時代の兵法者としてもっとも多くの有名武将に教えた人物ですが、それも流派の理論と段階的指導体系を整備していた事と無関係ではないかもしれません。