2025年1月17日金曜日

新当流は念網慈恩の一派である② 表は念流、七條之太刀からが新当流

  「新当流(神道流)は念阿弥慈恩の一派である①」では 伝書の文章から飯篠長威が中古之念流を学んだこと、初条七箇懸具足の前に念流を学んでいたという記述があった事を示しました。今回は新當流各派の体系の共通点や目録から、念流が含まれていること、七條之太刀からが新當流の太刀筋であることを検討していきます。

新當流兵法(剣術)七條之太刀

 新當流の兵法の体系を見てみます。新當流(神道流)では五つの太刀など数字で表された形があることは比較的有名です。失われた極意として卜伝一つの太刀の名前は知られているように思います。

 現存する新當流(神道流)を見ると、表として数字であらわされる太刀があります。例えば香取神道流なら、五津・七津・霞・八箇。飯篠家から分派した師岡一波斎の新當流(※1)では、八箇・九事・五ヶ太刀です。江戸以前に分派した松江と越後に伝わった伝書で同様であるので、これが一派系の表の太刀と思われます。

 ま、現在伝わる塚原卜伝の鹿島新當流では、面太刀十二箇条として一之太刀~六之太刀があり、その後に相車ノ太刀・突身ノ太刀・相霞ノ太刀・巴三ノ太刀・柴隠ノ太刀・柳葉ノ太刀の合計十二本となっています。 しかし、鹿島新當流の吉川家に伝わる「兵法自観照」を見ると、面十二箇条は八箇の太刀・七ツ太刀(九ツ太刀)・十柄剱の三つに分類されるとされています。また、吉川家から分派した水戸の鹿島新当流剣術名義抄では、五ヶ之事、八ヶ之事、七ツ太刀之事、十二ヶ條之事の四つとなっています。これら鹿島新当流の面之太刀は、名称が違うだけで、伝書の覚書を見ると内容は類似しているようです。また、吉川家が学んだ松岡家の伝書を見ると、八箇太刀組・七宛太刀組・十二箇条切合となっています。また、塚原彦四郎の系統である松代藩の神道流では、八箇・七宛・十二箇条とあって松岡家と同じです。卜伝系では系統によって表太刀が(すくなくとも名称は)かなり違っていたようです。

次の表はいくつかの系統の新當流の目録を表之太刀から七条之太刀まで比較してみたものです。香取神道流以外で共通して七條之太刀として引・車・拂・違・薙・乱・縛の七ツが伝授されるようになっています。


七條之太刀

 すべての新當流でみられる七條之太刀ですが、香取神道流でも五行の太刀に引、捨、發があり、極意の名称は七条之太刀となっています(名称は引、捨、拂…とは違います)

 香取神道流、塚原卜伝系以外の新當流系の伝書を見ると、桜井家(松本備前守系)の新當流では太刀は三、七、上段、中段、下段、十二となっています。長刀と鑓を学んで、次に中極位の最初として七条之太刀(引、車、拂…)となっています。また、師岡一羽の系統の伝書(※1)では、八ヶ、九事、五ヶ之太刀、七ヶ条之太刀とあり、次に極意七条之太刀(引、車、拂…)となっています(香取神道流と同じく極意七條之太刀となっています)。門井主悦の系統でも七ツ太刀、五ツ太刀、三ツ太刀、八ツ太刀とあり、次に待具足が七ヶ条、その次に七條仕合之太刀として引、車、拂…の太刀があります。

 門井主悦系と松本備前守、塚原卜伝系に引、車、拂…から始まる七條之太刀があります。飯篠家直系の古い剣術史料は少ないのでよくわかりませんが、飯篠家の門下である師岡家系にも同様に存在する事から、『七條之太刀』は飯篠長威創始の太刀と考えて問題ないと思われます。

※1 「太刀数覚書」松江歴史館蔵。内題に「新當流一派之筋太刀数」とある。

上古流、中古の念流はまた廃するべからず

 ここで桜井家文書「新當流手裏剱口傳」を見ると

「彼手傳授之前先念流高上之隠顕石龕之手可渡其已後新當流初條七ヶ條懸具足相渡後手裡剣秘術可見許者也(かの手(手裡剣)を傳授の前、まず念流高上の隠顕石龕の手を渡すべし。その以後、新當流の初條七ヶ條懸具足を相渡し、のち手裡剣秘術見許すべきものなり。)」

 とあります。「彼の手」(手裡剣秘術でしょうか)を伝授する前に念流の高上、隠顕、石龕を伝授するとしていますが、手裏剱口傳では序文にあったとおり、「隠顕之口傳事」六項目、「清厳 石龕」六項目の合計十二箇条の簡単な解説が書かれています。隠顕は念阿弥慈恩の兵法の極意の一つの陰剣、清厳は青眼に相当すると思われます。石龕についてはよくわかりませんが、この十二項目は実際に念流の兵法であると思われます。(石龕については門井系の目録にある別伝の念流小具足(小太刀?)の中では「石合龍」とされています)

 また、新當流の考え方では上古流、念流は待具足です。門井主悦系では七條仕合之太刀の前に待具足七ヶ条があります。

 次に塚原卜伝系(松岡家)では、十二箇条は判官流とされています。この判官流十二箇条は巴相、柴隠、龍牙、蜻蛉、虎乱入、獅子奮迅、飛鳥翔、夢枕の八つの名称となっています。天真正伝新当流兵法伝脈によると九郎判官義経の判官流(※義経以降が中古流)とされています。

 この表の十二箇条は松本備前守系にも存在していました。桜井家系の十二箇条には形に名称がありませんし、古宇田系の表は名称が不明です。しかし、桜井家から分派した飯篠流の絵目録に十二箇条があります。使われている構えが第五で蜻蛉、第六は虎乱、第七は獅子奮迅、第九は飛鳥構、第十は蛉夢ノ枕となっています。これらの登場する順番が松岡家の判官流十二重と共通しています。

 図‐ 飯篠流剣術(個人蔵)

 十二箇条や判官流に登場する蜻蛉、虎乱(虎乱入)、獅子奮迅、飛鳥翔は念阿弥慈恩の兵法にも同様の名称が存在しています。門井主悦、松本備前守系、塚原卜伝系、これらに共通して七條ノ太刀の前の段階で念流に関わりそうな技が伝授されています。

 これら十二箇条が松岡家の伝承の通りこれは中古流だとすると、手裏剣口伝の通り、念流高上(隠顕・石龕の十二箇条=判官流十二箇条)の次に新當流の初條七ヶ条懸具足(=極意七條之太刀)の伝授と解釈もできそうです。

 つまり、「浅より深に至る」ために「上古流・中古念流もまた廃すべからず」と表の太刀として中古念流(十二箇条=中古念流・無勇の待具足)を残し、基礎が出来た上で、懸具足としての新當流の初條、七條之太刀を教えたという事かもしれません。つまり、七條之太刀からが飯篠長威入道の創始した新當流の太刀筋という事ではないでしょうか。


(続く)


2025年1月11日土曜日

新当流(神道流)は念阿弥慈恩の一派である①

 昭和の頃から「日本剣道の三大源流」として神道流、新陰流、中條流が挙げられています※1。中條流のかわりに念流が入る例も見られましたが、現在では「兵法三大源流」として念流、神道流、陰流が挙げられているようです※2。

 この中の神道流は江戸初期以前は新當流と書き、香取の飯篠長威家直を開祖とする流派です。現在でも飯篠家に伝わった流派が天真正伝香取神道流として現存しており、広く世界的に修行者がいる有名流派です。
 香取神道流のWEBサイトによれば飯篠長威は
流祖の飯篠長威斎家直は、六十余歳にして香取大神に壱千日の大願をたて斎戒沐浴、兵法に励み百錬千鍛を重ね粉骨修業の後、香取大神より神書一巻を授けられ、天真正伝香取神道流を創始したと伝わる。(流派についてより引用)
としています。
 しかし、新當流各派の戦国期の伝書を中心に見ていくと、
飯篠長威入道が修行したのは念阿弥慈恩の流派(中古之念流)である
とはっきり書いてある例が複数見られます。また、長威入道は中古之念流の内容を批判し、新規を打ち立てて新當流を創始した事が書かれています。そして、その序文は上泉信綱の燕飛の序に大きな影響を与えているように見えます。
 以下、伝書および兵法の目録や内容も含めて検討をおこなったものです。

新當流の創始と伝系について

 以下は安土桃山時代までの、新當流の相伝系図の抜粋です。現存する伝書の相伝系図を参考にしているので、誰から学んだか不明である人(上泉信綱)などは入っていませんし、卜伝など多数の門人がいる場合は大幅にカットしています。




 開祖長威には複数の弟子がおり、弟子の代で既に各地に広まっていきました。

 飯篠家からは自顕流、一羽流(師岡一波は卜伝の弟子とされることが多いようですが、相伝系図では飯篠盛近の弟子、柏原河内守の系統です)、宝蔵院流、穴沢流などが現れています。

 塚原卜伝は養父土佐守、義兄の新左衛門と相伝系図を引いています。卜伝は知られている通り数多くの弟子がいたため、図にある新當流松岡派、鹿島新當流、本間流以外にも数多くの流派の元となっています。

 松本備前守は飯篠長威の後、もっとも有力な新當流の師範であったらしく、図以外にも多くの弟子がいました。有馬大和守の系統は徳川家康も学び紀州の有馬流(竹森流)へと繋がります。その他にも松代藩の新當流槍術はこの系統です。小神野越前守は松本備前守の最高弟だったようです。多くの弟子が居ましたが、桜井大隅守、古宇田越前守(小神野の婿)などの系統が広まっています。神道夢想流杖術もこの系統です。

飯篠長威の新當流創始

 開祖飯篠長威は辞典などでは

「香取神宮や常陸(茨城県)の鹿島神宮につたわる武芸から,天真正伝新当(神道)流を創始。松本政信,塚原安幹らをそだて,近世武術の源流となる。※3」

とされています。学んだ流派については言及されていません。

 松本備前守系、門井主悦系および香取修理佐の香取流には手継序という伝書が伝承されていますが、この内容はほぼ共通しています。手継序では新當流の創流について、上古流、中古之念流の名前を挙げ、飯篠長威が中古之念流を学んだとしています。松岡家の伝書では上古流は義経以前の流派、中古之念流は奥山之念阿弥の流派とされています。

 手継序では上古流、中古念流は待のみ(待具足)であるので、飯篠長威が

懸待表裏二種之根源を以て改め新當流を始む

とされています。つまり、新當流は上古流や中古之念流、特に念流が元となっているとされていたのです。

 また、念流との関係では、飯篠盛繁の新當流兵法書(今村嘉雄ほか編(1982)「日本武道大系第3巻」)でも

若狭邦住人飯篠長威奥山自恩兵法秘術伝

と飯篠長威の流派が念流であったとしており、島津家文書の摩利支天大根本巻(天正23年)※4では、飯篠長威は奥山之念阿弥の京六人、関東八人の弟子のうち、関東八人の末とされています。

 手継序では上古流と中古之念流について、

上古流中古之念流是亦不可廃従浅入深雖厚薄窄甚攫雲掴霧巷又愚眼所及也雖然彼両流待具足而元勇以去剣刻舷迯莬守株元活法然懸具足手留得不可勝計此勝知千人英万人傑也

おおよそ読み下すと、

「上古流、中古の念流はまた廃するべからず。浅くより深くに入ることは厚薄をすぼむと雖も、甚だ雲を攫い霧を掴むごとし。また愚眼の及ぶる所なり。彼の両流は待具足にして勇無くして、剣を去って舷を刻み、株を守りて兎を待つに似て活法無し。然れども懸具足手留の徳をあげて計うべからず。」

というようなところでしょうか。ここでは上古流や中古の念流は廃するべからずとしています。(ただし、新當流の懸具足より劣っている事を強調しています)

 実際、桜井家文書「新當流手裏剱口傳」※5には

次師之方別可有引出物仍彼手傳授之前先念流高上之隠顕石龕之手可渡其已後新當流初條七ヶ條懸具足相渡後手裡剣秘術可見許者也

とあります。つまり、念流の高上の技を伝授してから、新當流の初條七ヶ条懸具足を伝授するという事です。この七ヶ条懸具足がどのようなものか不明ですが、新當流で七ヶ条と言えば引、車、払、違、薙、縛、乱の七字の七条之太刀かもしれません。

(次回、新當流兵法の目録と念流に続きます)


新当流は念網慈恩の一派である② 表は念流、七條之太刀からが新当流

  「新当流(神道流)は念阿弥慈恩の一派である①」では 伝書の文章から飯篠長威が中古之念流を学んだこと、初条七箇懸具足の前に念流を学んでいたという記述があった事を示しました。今回は新當流各派の体系の共通点や目録から、念流が含まれていること、七條之太刀からが新當流の太刀筋であること...