綿谷雪・山田忠史 編「増補大改訂 武芸流派大事典」は出版から数十年経た現在でも伝統武術について調べる場合の必須の資料です。時代を考えるとすさまじい仕事です。
ですが、昔から知られている通り、間違いが多い事でも知られますし、独自の記述についても出典が書かれていないので検討しようが無い記述も多くあります。
新陰流についても同様です。ですが、新陰流や開祖上泉信綱については研究者も多いので当時より色々とわかっている事も多いと思います(Wikipediaの新陰流の記事も勉強になりますね)
しかし、新陰流の伝系については研究している人は少ないらしく、上泉の弟子として名前があがる人物については大事典とあまり変わっていません。むしろ大事典の方が詳しい事もあるくらいです。
この記事では、武芸流派大事典に上泉信綱の直弟子として名前の挙がっている人物について現在分っている事を簡単に整理して、直弟子とする事が妥当がどうか検討するものです。
武芸流派大事典では、上泉信綱門下として以下の23名の名前があります。
・上泉常陸介秀胤(上泉流軍法)
・上泉主水正憲元(考綱)(会津一刀流)
・三浦将監
・町田兵庫
・疋田豊五郎景兼(疋田陰流)
・神後伊豆守宗治(神後流)
・土屋将監(心陰流)
・柳生宗厳石舟斎(柳生新陰流。永禄八年許)
・宝蔵院胤栄(宝蔵院流槍術。永禄八年許)
・松田織部之助清栄(松田派新陰流)
・羽賀井浅右衛門一心斎(羽賀井流)
・(?)磯端伴蔵
・丸目蔵人佐長恵(タイ捨流。永禄十年許)
・奥山休賀斎公重(神影流・奥山流)
・坂田治太夫安季
・鈴木兵庫助(伊賀守)意伯
・那河弥左衛門
・野中新蔵成常(新神陰一円流)
・高島太郎左衛門長正(羽生主水)
・原沢左衛門(野田新陰流)
・西一頓高乗
・駒川太郎左衛門国吉(駒川改心流)
・狭川甲斐守助直(狭川派新陰流)
これらの人物の中には講談で有名ですが、武術史料で名前が見られない人物や、上泉の弟子ではない人物などもみられます。以下、一人づつ見ていきたいと思います。
・上泉常陸介
上泉信綱の息子、常陸介は小笠原流(上泉流)軍法の伝承者として有名です。
弟子で彦根藩に仕えた岡本半介は有名。常陸介は新陰流を伝承していたとされていますが、実態はよくわかりません。大事典の系図で次代となっている上泉権右衛門は尾張藩に仕え、子孫は現存しているようです。権右衛門が新陰流を伝承していたのは間違いなく、尾張柳生家の子弟へ上泉伝の新陰流を指導していた事が尾張柳生家の伝書「討太刀目録」(柳生茂左衛門利方著、貞享二年1685)に書かれています。
なお、上泉権右衛門は居合の名人長野無楽斎の弟子でした。権右衛門の居合、夢想流は尾張藩の居合の主流の一つとなっています。また、黒田鉄山師範で有名な民弥流も上泉権右衛門の系統とされています。
・上泉主水正憲元
大事典では会津一刀流を名乗ったとされています。残念ながら詳細不明です。
・三浦将監
この人物は残念ながら詳細不明でした。大内氏実録(近藤清石)や慶元記(北条氏長)に名前が見えますが、新陰流との関係はよくわかりませんでした。どこかに記載があると思うので調べる必要があります。
・町田兵庫
町田兵庫は甲陽軍鑑に内藤修理正の衆として上泉伊勢守とともに名前があります。上州治乱記では内藤の衆は簑輪の牢人で武勇のものを集めたとあります。師弟関係はわかりませんが、簑輪の武士なら新陰流を学んでいてもおかしくなさそうです。出典については今後の調査課題です。
・疋田豊五郎
・神後伊豆守
上記二名は記録が多いため信綱の弟子で問題無いと思われます。疋田陰流、神後流とありますが疋田豊五郎は疋田陰流を名乗っておらず、神後についても末流は神影流を名乗っています。
・土屋将監
大事典では上泉信綱と神後伊豆守の弟子となっていますが、土屋の孫弟子渡辺七右衛門(和泉)の伝書では柳生宗厳の弟子としています。流派名も心陰流の他に柳生流、心陰柳生流と名乗っており、目録にも西江水など柳生の影響が濃いので、柳生宗厳の弟子で間違いないと思われます。
・柳生宗厳
・宝蔵院胤栄
・松田織部之助
上記の三名に関しては記録も多く上泉信綱の弟子であることを疑う必要も無いのでここでは省略します。柳生と宝蔵院宛の印可状は現存しているようです。
・羽賀井浅右衛門一心斎
・磯畑伴蔵
上記二名は明治期の講談でかなり多く名前を見かけます。おそらく元ネタがどこかにあると思いますが、武芸小伝等にも名前が無く、出典がよくわかりませんでした。今後の調査が必要です。
・丸目蔵人
いうまでも無くタイ捨流の開祖です。子孫の丸目家に今も上泉信綱からの免状が残ります。
・奥山休賀斎
寛永重修諸家譜に上泉の弟子との記述あります。上泉信綱の弟子であった可能性は高いと思われます。
ところで、直心影流では小笠原玄信が奥山の弟子とされていますが、これは山田一風斎かその息子長沼国郷の創作の可能性大です。
小笠原玄信から分かれた諸流派の伝系を比較してみると、実は小笠原が奥山の弟子となっているのは直心影流のみです。直心影流の伝書や系図が現在知られているものになるのは長沼国郷以降であり、それらを確立したのも国郷とおもわれます。(参考:軽米克尊「直心影流の研究」国書刊行会2020)
また、直心流から分かれた神陰流(幕臣今堀家)にも同様の系図がありますが、江戸後期の伝書しか見たことが無く、確認できていません。これは直心影流の影響の可能性があるのではないかと思います。
・坂田治太夫
水戸藩の新陰流二代目です。この人物も詳細不明ですが甲州の人のようです。水戸藩の新陰流は幕末に伊藤派一刀流や真陰流(疋田豊五郎系)と合併して水府流となります。
・鈴木兵庫助(伊賀守)意伯
大事典では鈴木兵庫助を意伯としているようです。多くの場合神後伊豆守と同一視されています。実際のところは不明ですが、鈴木兵庫助の直筆伝書や孫弟子の伝書が実在しており、鈴木は紀州之住となっています。
・那河弥左衛門
那河弥左衛門は「武芸小伝」に記載があります。
那河弥左衛門
刀槍の術を上泉伊勢守に習、妙を修め悟る。機内、中国にして刀術に於いて名を顕す
とありますが、後の流派の記録は残念ながら見つけていません。武芸小伝の出版頃(18世紀初頭)は知られていた人物なのかもしれません。
・野中新蔵成常
神新影一円流の開祖です。
多くの場合上泉信綱の直弟子とされていますが、子孫の野中家の記録によれば長岡藩主牧野氏のご落胤とされています。(実は野中新蔵は元の名を牧野新蔵、回国修行中に惣社の野中家に婿入りして野中を名乗ります)
新蔵は慶安3年(1650)に生まれているため、上泉の弟子直系ではありません。神陰流を学んだとされていますが、系統については不明です。二代目野中円学は江戸に出て柳生家に入門して修行したと伝わっています。この野中円学が神道無念流開祖福井兵右衛門の師であるようです。出典:植田俊夫「栃木県剣道史」
・高島太郎左衛門長正
この系統の新陰流は仙台藩に伝わっていました。
その伝書を見ると、上泉武蔵守と高島太郎左衛門の間に山岡五郎入道が入っています。ですので、高島太郎左衛門ではなく、山岡五郎入道が上泉の弟子でしょう。
ただし、これにも一つ問題があり、この系統の新陰流の形はあきらかに疋田豊五郎系の形となっています。疋田豊五郎の新陰流は疋田によって編纂され名称等が変えられているので、山岡五郎入道は上泉信綱の弟子ではなく、疋田豊五郎の弟子だと思われます。あるいは豊五郎その人かもしれません。(山岡五郎と豊五郎、ちょっと似てますし)
・原沢左衛門(野田新陰流)
群馬県内の旧家にある新陰流伝書の伝系上に上泉の弟子として原沢の名前があります。なおその伝書には野田新陰流の名は無いため、この流派名の出典は不明です。出典:諸田政治「上毛剣術史 中」煥乎堂1991
・西一頓
伝承地は不明ですが、武徳会が収集した史料の中に西一頓の伝書があります。また、九州内のある系統の新抜流伝書で西一頓の伝書を引用している系統があるため、西は九州の人だったのかもしれません。
・駒川太郎左衛門
黒田鉄山先生で有名な富山藩独自の剣術、駒川改心流の開祖です。流派の伝承では甲州の人で上泉の弟子と伝わりますが、詳細不明です。
・狭川甲斐守助直
大和志料上巻に永禄二年に狭川村の狭川甲斐守とあります。年代から甲斐守は上泉信綱の弟子であった可能性はあります。また仙台藩に仕えた子孫による家譜では、狭川甲斐守助貞は上泉伊勢守の弟子、孫の代で柳生の門弟となったとしています。(伊達治家記録 7 )
なお、甲斐守は助貞であり助直ではありません。助直は甲斐守助貞のひ孫にあたり、仙台藩の初代になります。
まとめ
以下の四名に関しては弟子である根拠が見つからないので保留とするべきでしょう。
・三浦将監
・町田兵庫
・羽賀井浅右衛門一心斎(羽賀井流)
・(?)磯端伴蔵
以下の二名に関しては信綱弟子では無いので系図に載せるのは不適切。
・土屋将監(心陰流)
・高島太郎左衛門長正(羽生主水)
上記の検討結果から、大事典の系図を修正すると以下のようになります。
上泉信綱
├上泉常陸介秀胤(上泉流軍法)
├上泉主水正憲元(考綱)(会津一刀流)
├疋田豊五郎景兼
├神後伊豆守宗治
├柳生宗厳石舟斎(永禄八年許)
│ └土屋将監(心陰流)
├宝蔵院胤栄(宝蔵院流槍術。)
├松田織部之助清栄
├丸目蔵人佐長恵(タイ捨流)
├奥山休賀斎公重
├坂田治太夫安季
├鈴木兵庫助(伊賀守)意伯
├那河弥左衛門
├(何代か不詳)
│ └野中新蔵成常(新神影一円流)
├山岡五郎入道(疋田豊五郎のことか?)
│ └高島太郎左衛門長正(羽生主水)
├原沢左衛門
├西一頓高乗
├駒川太郎左衛門国吉(駒川改心流)
└狭川甲斐守助貞
(要検証の人物)
三浦将監
町田兵庫
羽賀井浅右衛門一心斎(羽賀井流)
(?)磯端伴蔵